michiro-Uのときどきトランス日記

2018年5月22日 (火)

ときどきトランス日記 No.83 / 昔日に寄せて。。R.I.P Bapak Suwentra 

スウェントラさんが今月の11日に亡くなった。

一体、何から、何処から話したらよいのだろうか。
そう、暫くはこころに感ずることはぐずぐずと内側に向かうばかりで、言葉には成り難かった。

でもようやく。このことは本当のことなんだと。

これは「起点」についての話になると思うのです。

バリを離れて12年の歳月がはらはらと。もう1年過ごせば、丁度彼の地で暮らしていた
年月と同じになる。
こんな初夏の、気持ちの良い芳しい頃が自分の1年の句読点になっている。

そして、それとは別に人生には起点となる瞬間が何度かあるのだと思う。
バリでの、いやウブド村での暮らしが、自分の人生に何度かあるだろう起点の大きなひとつだった。

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そうして自分の表現の大きな部分を占める音楽、その起点のひとつがスウェントラさんだった。あまりにもおおきな起点。
I.Ketut.Suwentra バリ音楽の巨星。
そう、まさに彼の夜空でぎらぎらと輝くおおきな星であったひと。

巨星堕つ。だから訃報を聞いてまずFBにこう書いてしまった。
後から見れば、まるで新聞の見出しの如くで笑ってしまったが、その時は大きな星が堕ちて大洋の彼方へ沈んでゆくイメージが咄嗟に浮かんだのだ。
そう、イメージだけで、現実感が持てなかった。
だって、まさか、、

あれからもうどのくらいの時が経ったのか。
考える、もうそのことばかりの人生かも知れぬ。

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スウェントラさんは自身の楽団の本拠地ヌガラと州都デンパサールに家があって、でもウブド村が大好きで良くいらしていた。
ぼくは時々、あぁ、あのひとが、、と遠くから見ているだけの存在だった。

ところでぼくは、中学生の時の、ある音楽的起点を境にロックにのめり込んでしまい、そのまま20数年が経っていた。
そうして、この地へやって来たときもまだ、それはくすぶり続けていた。
しかしそう云う時に、この地の伝統楽器である竹のシロフォーン、ティンクリッに偶然出会い、すっかり気に入ってしまい、その名手のバリ人に手ほどきを受けたりしていた。
だが、すこし弾けるようになってくると、伝統曲だけでは物足りなくなってくる。自分で作曲
したくなってくる。
こころのくすぶりが僕をそうさせる。だってロックとは、オリジナルであれ、と云う事と同義
だから。

何曲か作ったのだけれど、伝統的な奏法にはどうしてもならない。やっていくうちに自分なりのオリジナルな奏法が出来ていった。
それを録音して、そこに伝統奏法を重ねて、更に変則な奏法を重ねて、と試行錯誤の森で遊んでいた。

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けれど、それは多重録音だから叶う音であって、独りで弾く時は自分の奏法だけなので、これはどうなのかな?と云う悩みは大きかったのだ。
左手の、つまりはベース、ルート音のノリが大きくなってしまい、トラディショナル独特のあの緻密な感じが薄れてしまう。

あるとき、良く行っていたCafePadiの2階で、誰もお客がいなかったので、置いてあるティンクリッを独りで弾いていた。
そうしたらひょいとスウェントラさんが上がって来て、僕の隣に座って、もう1台あったティンクリッで突然のセッションになった。
いきなりとんでもないところから超高速のパングル(バチ)さばきで切り込んで来て、ぼくはもう何が何だかわからないけれど、夢中で附いて行ったのだ。
とても長い時間だったと思う(後で良く良くわかったことだが、彼とのセッションは1時間2時間は普通のことなのだ)

ぼくもスウェントラさんもお酒がだいすき。そのときも、じゃあ下へ行って呑みましょうと、初めて御相伴させて頂いた夜。
ビールに椰子焼酎、彼の地では少し贅沢なスコッチウイスキー。
ぼくは思い切って、ティンクリッに於ける自分なりの奏法について、これの是非で悩んでいますと話した。
「あぁ、それでいいんですよ」
こともなげに彼は言い、さっきの2階での経験がそれを強く裏付けた気がしていた。
得心した僕は、それからPlanetBambooでもうひとりのティンクリッ奏者とこれを推し進め、このグループ独特のサウンドの一角を担っていったのです。

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スウェントラさんにも、奥様の和子さんにも本当にとても良くして頂きました。
産まれたばかりの息子を凄く可愛がって頂いた。
デンパサールのお家にも随分遊びに行った。よく呑んだ。ウブド莫迦兄弟と名乗る自分の遊び仲間たちと押しかけ夜通しカードゲームをした。そうして調子に乗った早朝にスウェントラさんの大事していた鉢植えを壊して怒られたりした。

海水浴にも行った。陽が落ちると、海水パンツなど邪魔くさいと素っ裸で泳いだ。
そうしてお酒が入ると必ずセッションが始まった。楽器がなくても関係なかった。触れて音の出る物なら全てが楽器だった。うん、1時間でも2時間でも。

Kajegog
「あぁ、それでいいんですよ」
何度もそういう瞬間があった。
この言葉の調子、トーン、その表情までが僕の裡にいまもある。
これから先もずうっとだろう。この言葉の全部と生きて来た、そして行く。

この瞬間を、言葉を、良く覚えている友人がいた。
こんな文章を僕個人に寄せてくれたのだが、スウェントラさんとの思い出だ。
だから此処には転載しようと思います。

***************

それでいいんですよ、
の時こと、よく覚えてます。

スウェントラさんのデンパサールの家に遊びに行った日ですよね?

最初、私も一緒に混ぜてもらってジャンベを叩いてたら、次第にスウェントラさんとみちろうさんが熱を帯びてきて、私はただならない雰囲気に叩くのをやめて、ずいぶん長い時間お二人でどんどん極まっていったあと、フッとやんで、そしてスウェントラさんがそう言ったと記憶してます。

みちろうさんはそれを聞いて、雷に打たれたみたいにかたまって、そのあと静かにほぐれていきながら何度も、そうか、それでよかったのか、ってつぶやいてました。何度も。両手をひらいてみたりしながら。確かめるように。

高い窓から日差しが斜めにさしこんで、光の粒がキラキラしてました。

返信は不要です。

****************

スウェントラさんが逝ってしまった。
そうしてその晩、その訃報を胸に、自分は前々から観に行く約束をしてあったライブの為、渋谷に大事な友人と居た。
その友人はウブド莫迦兄弟のひとり。
少し時間が早かったので、マメヒコで珈琲を飲んで、ぽつぽつとスウェントラさんの話をして。

Pasco1
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ライブはね、ブラジル音楽の異端の大御所Hermeto Pascoalのグループ。
御歳82歳、白髪のロングヘアー、その立ち位置、仕草。プライヴェートで行うセッションの様子。
そうしてその音楽は極限まで複雑にしたリズムを幾重にも折り畳んだ塊。
そのどれもがスウェントラさんに繋がっている。
ぼくはそのステージでずうっとスウェントラさんの幻影を見続けていた。

これを記している今日。
もうヌガラのサンカルアグン村では葬儀も済んで、火葬され、かつてスウェントラさんであった身体は灰となり海へと、世界へと、果てしなく流れてゆきました。
では世界中の何処の海岸であれ、その水に触れさえすれば良いのですね。
自分などは海へ行くことなど滅多にないのですが、きっと何時か逢いに行きますね。そうだな、地中海かも知れません、それは。

何処にも音の記録はないけれど、アチェの大震災直後のセイヴ.アチェのコンサートで、自分は若輩者だったけれど、いい歳のオジサンばかりのグループやりましたね。
「Uncle Angelique(伯父さん天使)」ぼくが命名しました。
PlanetBambooのOdedやディジュリドゥ―の御隠居さんや。さっさと先に逝ってしまった画家のJasonMonetも面白がっていつの間にか得意のホーミーで横で唸っていたりしましたね。
そのみんながUbud村の呑み友達で。

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勿論のこと、スウェントラさん=ジェゴッグであり、唯一無二のパイオニアであり、その極限のポリ.リズムは他の追従を寄せつけない。
そのスーパー楽団スアール.アグンの総裁。King of Bamboo。

でもね。

呑んでいると、芸術とめっちゃエッチな話が同一線上に、気付けば乗っているひと。分けることをしない。だって一緒のことだから、と。
そうなのだ。
分けることをしない。男と女を分けない。芸術を分けない。宗教も分けない。世界を、つまりは善と悪を分けない。
これはまさにバリの世界観そのものだ。

こんなひとを自分は生来知りません。

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そして、僕のウブドファミリーである大切な友人がFBにこんな言葉を寄せています。とても重要な言葉たち、と思うので、これも転載させて頂きました。

**************

BarongCookieの工房長メワヤン、仕事のパートナーでもあるけれど、本当に彼女の人間力の高さには、いつもただただ
感動する。心から尊敬できる人。
そんなメワヤンの愛娘アユが嫁いだ。
まだ二人が恋人同士の頃に、彼がメワヤンにこんな質問をしたらしい。

「メワヤンが娘婿に望む条件は何?1番、お金持ち。2番、ちゃんとした仕事についてること。3番、両方とも」

その時のメワヤンの答えは、
「4番。(笑)」

「幸せな人。
自分が幸せで初めて、周りも幸せにできると思うから。
そもそも幸せでない人が、周りの誰かを幸せにできると思う?私はそうは思わない。」
そう答えたらしい。

スウェントラさんも生前、挨拶のようにほんとによく言ってくれてた。

「 Are you happy? I'm happy.
幸せじゃないとダメ。
幸せだったら大丈夫。all ok.」
そう言って、にっこり笑ってた。

自分自身いつも幸せであること。
どうやら、ものすごく大事で重要なことらしい。

ながっ(笑)でも忘れないように

****************

このメワヤンと云う人は僕がウブド村に住んでいた時の大家さん一家の奥さん。
優しくて、強くて、働き者で、そうしてとても賢明なひと。
我が家は大家さん家の敷地内にあった。だから家族みたいなもので、息子はひとり息子だけれど、6歳までは大家族の中で育ったとも言える。

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とまれ。

もういまは夢のようです。するりするりと逃げていく夢の尻尾を追いかける少し辛い今生ですが、あの日以来、凝り固まっていた我が身とその精神が、少しづつ解けて流れ始めています。
まるで偶然のように必然が繋がって僕の周りに集まり始めて。
これはまた起点、なのかも知れないなと感じています。ただその答えはもう少し先のこと。

「あぁ、それでいいんですよ」
この言葉の全部と生きて来ました、そして生きて行きます。

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ありがとうございました。

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2018年4月24日 (火)

ときどきトランス日記 No.82 / 2年目の約束といつか老境に。

2年目の春の約束終える。
去年、花弁が雪崩れ流れたのが4月の8日だったのにね、今年は随分の咲き急ぎ。
なので先から桜も天気も諦めていたのだけれど、悪くはなかったぜ。
新緑と云うものは殊のほか良いものなんだな。

憎らしい夜半の雨のやつ、でも夜明けには止んでくれていた。
去年もこいつでやきもきしたこと思い出す。

待ち合わせた国分寺駅に電車組がどんどん集まって、秘密の会場まで武蔵野散歩。
生まれ育った処だし、今歩いてるコースだってきっと大変な回数を歩いてる筈。
なのにひとを案内なんてしてみると新鮮、しかもなんとも良い処なのだ、国分寺って。

ひろびろと抜けのいい原っぱで宴を張るのは我らだけかなと思っていたけど、
予想を外した遅れた人たちっているもんだ。

Hnm15Hnm16
「見たて」のシンバルとスティックにワインを添えて、今年の約束を果たす。
桜のない花見だな、どころか花もない、雑草ばかり、って笑ってるだろ。
さっさと死んじまった奴は気楽、きっともう今はね。
それはそれ。
まぁ、また来年な。

Hnm9
宴の終盤は風に飛ばされちゃったけれど、それでも良い宴。
鴉の野郎に泥棒されたりしたしね、愉快だったよ。

仕切り直しの我が家の大騒ぎ夜も更けて、早朝から起き出しているのは自分ばかりなり。
特別にすることもないからね、珈琲など淹れて、こうやって日記を書いたりしてる。
自分は朝早く起きるのが得意だけれど、休日の朝は特に早いんだよ。この時間を愛しているのだと思う、こころから。
ま、就寝はひとが呆れるほどに早い、はは。

Hnm14

日は明け暮れて。

月に1~2回、プロフェッショナルとアマチュアが半々くらいのジャズグループで、パーカッションをやらせて頂いている。自分は勿論後者である。
その流れで本日は、音楽大学で教鞭を執られていた、御歳は存じ上げないが、かなりの御高齢で既に退官されているピアニスト、さらにマンドリン奏者でもあるA氏のステージで2曲ほどパーカッションをやらせて頂いた。
「コーヒールンバ」と「カリート」という曲。

御高齢故の、と思う。
運指が縺れて止まってしまったり、小節の半分辺りで次の小節に突入したりと。
その度に自分は氏の小節の頭を探してリズムの修正をするのだけれど、それでもちゃんと良い音楽だった。
音楽ってそこじゃないんだよ、と先生の背中が語り、そう解釈したら、本当にそうだった。

「とても良かった」何人もの高齢者の方にお褒め頂き(そのような会場だったので)その場では自分の如き若輩者は感謝するばかり、本当に貴重な体験をさせて頂いた。

自分が表現したいもの、ことに対して、身体の機能がもう付いてこない。
きっといつかはそのような状態に自分はなる。いや、皆がなる。
修練の問題を感受性にすり替える気はない。
しかしそれでも「表現」はある。そこに存在する、ちゃんと。

寛容さの裡にこそ感受性は存在しうる、と思う。
いや、否定、拒絶の裡にもそれはある、が、それが育つことはない、と思う。
そう云う勉強を今日はした。

だが。

真っ暗な場所で孤独に小さく輝く星のような、光の届かない水底の深海魚のような、そう云う感受性をでも自分は持ちたいと思う。
絶対孤独の感受性。

おおきく矛盾した気持ちを自分は抱えて生きている。

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今朝は急に観たくなって「ニューシネマパラダイス」を午前中観ていて、お昼過ぎに楽器を積んで車で会場へ出掛けた。夏日の様相で久し振りに窓を全開、15分くらいの気持ちの良い運転。
そう云う気分の影響下だったから、するりとA氏の空気に紛れ込んだんだよ。

このこととこの映画は直接の関係はない。
けれど、トーン。

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2018年3月19日 (月)

ときどきトランス日記 No.81 / 酒を呑むの記。

独りぼっちで遊ぶのが好きな所為か、先の短旅以来、独り昼呑みが気持ち良い。
なので「多古屋」
国分寺駅前で正午から開けている居酒屋。
広くて安くて大衆的。思うにこの広さが良いのだ。楽。
ぶらぶらと散歩の途中なので少々身体が冷えている。なので座るとすぐに「熱燗2合で、、」
と、新人ってことがばれない様に気を使う莫迦。訳知り顔で。
酒が来るとすかさず「鮪刺し」290円也を注文するのね。玄人顔で。
などと楽しいことをしているうちに徳利は空に果てている。
ならばここはひとつ、名物の18時までは100円のチューハイだろうと思う。
何故ならば、そこそこ入ってるお客の大半がこれを注文しているようなのね。

一緒に鳥皮串を誂えて2杯ほど味わって散歩の続きに戻る。
大人のおやつだからね、このくらいでイイのだけれど、いつかナポリタンを注文
したいと思う。
居酒屋のナポリタンなんて美味しいに決まってる。

Tako02
ことほど左様に独り昼呑みは楽しいのですが、夜はねー、矢張り少し寂しいと云うか。
誰かと語らい酌み交わしたい時もあってね。
てことで、友人のB画伯と@多古屋。更に先の宵のこと。
この晩の寒さは凄まじく、もう熱燗以外思いつかないほど。
塩らっきょうとか鮪刺しなんかで、いやいやおひとつ、なんか言いながら、楽しい。
厚焼き卵がほかほかで湯気がたっている。
「これ、あの人が作ってくれたと思うと何か有り難いですよねぇ~」と言われて、
そちらを伺うと、カウンターの向こうにはいかにも料理が上手そうな、そのなりも佇まいも
が、板前さ~ん、って感じの初老の方がいらっしゃる。
バイト君が適当に作ってる感は微塵もなくて、こりゃ確かに有り難し、と思う。価値がある、
と思う。
そうして我々はその後18時過ぎからは160円になるチューハイを、際限もなく呑み続けたのだ。

Tako01

来週ね、息子が友達とバリ行くんだよね、なんて画伯に言ったら「う~ん、それは、良いですねぇ、
彼のルーツである訳だし、なにかそう云う、求め、みたいなものが、、」

おぉ、さすがBちゃん、自分は却って驚いたりした。
そういう熱い読み。
それからシニシズムなんかの話になって「でもアレは餓鬼の頃に罹る麻疹みたいなものでさ」とか
「けどそれが治らずに大人になった奴もいて、って云うかそう云う人の方が圧倒的に多いよな」とか、
「いやいや、治っていないフリしてる奴もいたりして」
、、、。

「矢張り熱い方が良い」

そう云う結論を得、すっかり熱くなった我々は、立ち呑み「佐々木」で少しクールダウンしてから帰ったぜ。

しかし、立ち呑みと言えば、矢張り荻窪の「つまみや」だと思う。

あぁ、またかとお思いでしょう。
だが先の夜、2週間ぶりにつまみや。

先々月末から茗荷谷に6日、虎ノ門に1日の用事がでも、すべて終わってしまった。
帰りにいつも行ってたのに、今度何時丸ノ内線に乗るのかわからない。寂しさが募る。

Gin
いや、別に中央線で上ることがあれば、帰路に途中下車してもいいようなもの。
だけれど何かそれは収まりが悪いと云うか。
終点荻窪でメトロの改札出ると、左手にJR改札。正面に南口へのエスカレーター。
自分は迷わず地上へ向かい、通りを渡り、ごちゃっとした南商店街の細い角曲がって
ほんの少し。
去年ライブやったインド料理のナタラジとかカルディコーヒーファームの前通り過ぎ
るともう看板が見えて来るからちょっと早足になって。
いつもそうだったから。

Tsumami1

今日は胃腸が絞めつけられると云うか、非常に緊張を強いられる時間の多い用事だった
ので、おでんの大根と卵が実に優しく胃に沁みて、こころにも沁みて、コダマバイスで3杯、
〆に熱燗なんか頼んで、ほぐれ切った我が身を中央線が国分寺まで運んでくれた。

ところで昨日の土曜日の昼下がり。
とうとう自分は多古屋のナポリタンにありついてしまった。

先に熱燗で鮪刺しなんかをつまんでいたので、酔いがほろほろとほろけそうになっている。
なので早速100円也のチューハイに切り替えてしゃっきりして、静かにナポリタンの到着
を待った。

だが、到着したブツを見て矢張り思う。これは独り呑みでは頼みづらいのではないか。いや、複数人でも男だけならば頼みづらい。女子供がいないと頼みづらいのではないか、と思う。

色が鮮やかなオレンジ色だ。で、油でつやつやぴかぴかしてる。物凄く目立つ。派手だ。
隣席の初老男性ふたり呑みの方に「え、何これ!」と話しかけられてしまった程だ。

だが自分は慌てることなく麺をすすった。
何故ならば、家人と一緒だったからねー。
旨かった。いや、本当にね。

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その日は映画に行ったんだよ。
「シェイプ.オブ.ウォーター」
異形の者をどうしようもなく愛してしまう女性を軸に据えたストーリー。
だけど全体を覆うトーンが「ウルトラゾーン」とか、遥か昔のアメリカ製怪奇テレビドラマ。
だからそう云うの観ていた小学生の頃に戻されちゃった。
薄暗い部屋の隅にある白黒のテレビ。いつでも夕方だったと思う。そう云う時間に
アメリカの夢を見ている。

薄暗い骨董品店の片隅でちらりと光って、あぁ、こんなところに
居たんだ、、と思わず手に取るような映画。

実はこれ、古い友人のやっているザ.パルジファルというバンドのCDを聴いたとき思ったこと。
彼らの音楽。
それは。

薄暗い骨董品店の片隅でちらりと光って、あぁ、こんなところに
居たんだ、、と思わず手に取るような音楽。

このところ、こう云う話ばかり。

歳を取るにつけ、色んなもの、ことが低下していくけれど、その欠損した場所にうまく嵌まるもののひとつに独り呑みがあるのではないかと思う。

昔、英国を旅した時に、パブでそういう老人を随分と見かけた。日本の居酒屋と同じで、そういう人たちは早い時間にしかいなかったような気がする。

そうやってよろよろと酒を呑む余生、にはまだ少し時間はあるのかも知れないけれど。

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2018年2月 3日 (土)

ときどきトランス日記 No.80 / 干物を食べてから無になる。

港がすきだ。
それに此処には「深海魚水族館」がある。
自分は深海魚の写真集を持っているし、それが硝子越しに本物が観れるなんて凄い、いつかきっと行こう。
そう思っていた。

小田急線や東海道線を乗り継いで、でもこの日は寒くてね、熱海駅で乗り継ぐ時には小雪舞う。
だからちょっぴり後悔をした。折角の休みの3日間、家でぬくぬくと映画でも観てれば良かったよな、と。
でも沼津駅から、大通りを外れた狩野川沿いの道を港へと歩きながら考えた。
自分はナニをしたかったと云うと、移動がしたかっただけだ。
暮れから正月からこっち、ここ数日前まで、なんだか身体にも心にも、ぎっしりとナニかが詰め込まれてあった様な心持で過ごしていた。だからちょっと移動したくなった。すこし隙間が必要。
雪は小雨に変わっていて、凄く寒いけど、それでもいい。

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30分くらい歩くと港。身体が冷えているし、空腹だった。
干物を商うお店の奥が食堂になっていて、小ざっぱりしていて感じが良い。
500円の鯖の醤油干し定食を注文する。
切り身が大きくて、御飯と味噌汁はお替わりが自由で、お腹も身体ももう暖かい。

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水族館はね、、想像していた、この世のものではないような貌の生物はいなくて。
でも可愛い奴らがたくさんいた。まだこの世のこっち側の住人と云うか。愛を感じる連中。

水槽の硝子にぴったり顔をつけて視界を水中だけにすると、感覚がふわりと浮きあがって時間が止まる。
「無」が拡がって、水中に居た頃思い出す。

でも超深海のあっち側の疑似環境をこっち側に作るのは難しいのだろう。其処の住人を連れて来て住まわせるのだってきっと。
だから自分たちは写真集やCGで我慢しなければならない、そう思った。
此処の見物のひとつに冷凍シーラカンスがあるからだね、入口の壁に貼りついた、シーラカンスとウナギイヌが合体したみたいなゆるキャラが可笑しい。動くし喋るし、名前が「シーラ爺」おぉ、こりゃシーラ'E'から取った?あの。
Tommy爺、いや'G'も吃驚だぜ。
でも、会ってみたかった、、愛どころか、全ての情感をも拒絶する、絶対孤独の世界の住人たち。

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外に出てみたら、天気が回復していて青空。
潮の匂い、倉庫の屋根に鴎、冬の陽が緩く反射する水面、映り揺れる対岸の松林。

じゃあもう少し歩こうかな、湊町。
後は歩いて「見つける」だけ。
自分の好きな「感じ」を。

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それでも3時過ぎには駅前の繁華なエリアにいた。
沼津。港も駅まで続く住宅なんかのエリアも、繁華な辺りも、何処も作りが新しくて、これはしまったなと思わされた。
だからこその見つける楽しみもあるんだけど、此処は手強い、、時期が悪かった、と思う。次回だな、、そしてその次とは自分的には50~60年先だろうか。

4時くらいから「かわむら」で呑んだ。
此処は沼津で最古参の酒蔵がやっていると云う。と云うと敷居が高そうだが、大衆的で安価。
などと云うことを自分は予め調べてあって、まだまだそう云う審美眼、探求眼は持てていない。

旅の最大の楽しみ、酒。
この酒の一番旨い呑み方は「独り」であること。
しかし独りぼっちで外呑みなんて老後の楽しみにと取っておいたのに、もう。
いや、既にそれなりの歳だ。まぁおずおずと。

此処は9時で閉店だけど、昼からやってるのね。自分の如き酒飲みの旅行散歩者には大変有り難い。
んで、ぽつぽつと独り呑み爺さんが居る、来る。
あぁ、自分もやっとこう云う人達の仲間に入れて嬉しいなぁ。でもまだ新人。

がらがらなのに何故かカウンターの自分の隣に座った20歳くらい年上の爺様は、見た事のないサイズのニッカの小瓶(350ml)を、コップにじゃぼじゃぼ注いでストレート。出された水には口もつけずに2本目を注文している。
アテはシラスと何かの和え物の小鉢ひとつ切り。
お会計は950円。
、、ううん、達人っぽい。
自分は2合徳利の熱燗とホッキ刺の小鉢が空いたばかりで、ジャンボコロッケを頼んだら、もうこれがホントにジャンボ~、10×25センチくらい、大体。
こりゃビールだろうと、アサヒの大瓶を注文する。

と、まぁ、此処でばたばたとこう云うことをしているのは自分ばかりで、他の人々はなんか渋いなぁ、、
そうしてお会計2000円也を払った修行の足りぬ自分は、それでも幸せな心持でホテルに戻った。

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ゆっくり風呂に浸かって、それでもまだまだ宵の口。何か買い出しに行って、お酒も買って来て、独りの宵を楽しもうと思う。
その積りは、でも積りだけで朝を迎えてしまった。
いい加減な寝かたで、薄いバスローブ様のものだけが身体に絡まっている。

夕べは満足したんだ。

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2017年12月28日 (木)

ときどきトランス日記 No.79 / しめこのうさうさ。

毎年。
音楽のお堂にお参りして、数日経つと誕生日がやって来る。
だから、あぁ一年経ったのか、と思うのはこの時期。

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世界の歯車はますます噛み合わずにぎりぎりと軋みながら、エントロピーは増大して、その回転速度は増しているように思える。歯車のいくつかにはもう亀裂が入ってる、いまにも割れそうだ。怖い。

国、国家と云うものの怖さが暴かれ出している。
そしてそのトップが軒並みに狂い始めてる。連鎖?いや、これはシンクロニシティじゃないだろうか。
連鎖は断ち切ることがまだ可能、けれど世界中あちらこちらで同時に多発している現象は止めることは出来ないだろうと思う。

先の、某神社のもと宮司の起こした陰惨な事件。何か神社というものがこれも僅かに暴かれた気がした。
こんなことも世界からの影響なんだろうか、、

とまれ。

色んな思いで破裂寸前の我が裡の内圧を、この音楽のお堂は受け止めて、降下させてくれる。
この一年に一度の奉納の如き演奏は、もう自分の人生には不可欠。

そうして、この横浜のお堂には實さんという素敵な宮司さんがおわす。
いや、ぼくが勝手にそう感じているだけで、お堂とは横浜最古のジャズクラブのAireginであり、實さんは其処のマスター。

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けれど、前にも書いた気がするけど、お堂って云うのはお寺にあるもので、神社ならば祠と云う。
宮司って云うのは神社の偉い人なので、だから間違いではある。
でもね、このお店のドアの前に初めて立ったときにそう感じてしまったのだ。お堂を。
そうしてライブを終えて帰る頃には、マスターの實さんは僕の裡で宮司さんになってしまったのだった。

宮司さんはでも、今は自らガンマンを名乗っている。
放射線治療は長く辛かったのだと思う。
でも一年振りにお会いした實さんは穏やかに笑っていた。
抗癌剤治療はきっぱりと拒否されたそうで、でもすっきりと笑っている貌は頼もしい荒野のガンマンそのものだった。
きっとこれが正解の証し、そう思った。

けれど、陽が落ちて夜も深まる頃、お店がハネて家路を辿る頃には星空のガンマン。
その時だけは、ふっと寂しそうに笑うんだ。
ぼくがこどもの頃に観た映画のガンマンみたいにさ。

ところで。
此処の音の良さは自分の知るなかでは最高峰に位置する。
特にリンディックの音で感じること。
打撃音と実際に鍵が鳴る音とのバランスが素晴らしく良い。どっちの音も必要で、どっちが出過ぎても駄目。
その理由について、いつも解明したいと思っているのに、結局は判らない。
何か場の神的な霊力の働きなんだろな、と腑に落ちてしまう。

確かにミキシングをしてくれた菱沼君のちからも大きい。リハーサルの時点からとても丁寧に音を作ってくれてたし。
だから霊的などと言っては失礼かもしれないな。

しかし、ひっしー(こう呼ぶようにと宮司さんから言われてるので)のミキシングは初めてだったし、毎年変わらず凄く良い音なので、矢張り此処には何かあるのだろうと、つい考えてしまう。

2017
今年もつつがなく演奏出来て、、などというのは今の時勢に合わず、言わないけれど。いや、でもだからこそのつつがなさの大切さ。
つつがない。漢字だと「恙無い」
辞書の意味は「病気・災難などがなく日を送る。異常のない、平穏無事である状態」

そういう年になれば本当に良いのだけれど、来年。

10月はなんだかざわざわした月だった。
23日に江古田音楽祭というものに参加した。
音速は「フライングティーポット」というお店でのステージだった。
そうしてその直後の選挙で自公が大勝。
それがたかだか2ヶ月前の話なのに、もうずうっと前だったみたいな気がする。

Ekoon9

その頃、FBに投稿したのが以下。

選挙が終わってさ、その結果についてああだこうだと。毎日。
いや、もうそんなのも終わってる?

結果はそれが民意だったのだから、と。
でもそうなのかな?と思ってしまう。
「民」とは全員をもって「民」なのじゃないだろうか?でも選挙だから、この場合選挙権を持つ民主主義上の「民」のことになるけど。

民意。民の意思。
でもこの国には「意思」がないんだなと、つくづく感じてしまった。
意思がないから、選挙には行かない。興味が湧かない、考えもしない。
で、わかっちゃった。
驚くなかれ、まぁまぁ豊かでみんなが大体不足なく御飯が食べられてる後進国なんだよ、此処は。
珍しくないですか?我が国。

意思のないことや、若しくはあってもそれを示さないのもひとつの意思?
だからやっぱりこの結果は民意なのかも、、と、つい迷路で迷子。

はは。ない袖は振れんよ、きみ。と、ぼくもぶらぶら天気の町を歩きたい。

それにつけても寂しさが募る。募りまくる。
みんないなくなっちゃう。
赤瀬川原平、ピエール.バル―、ホルガー.シューカイ、そして3日前には遠藤賢司、、
中津川のライブの「夜汽車のブルース」にこころ震えて、72年の3枚目の「嘆きのウクレレ」まで夢中になって聴いた。中学生の頃だ。

数年前に観た映画「中学生丸山」で彼に再会出来た。初めて彼に出会った時のこころの震え思い出した、中学生のぼくに刹那会えた。その刹那を今日また思い出してる。

だからやっぱりぶらぶらと、なんとなく楽しげに暮らすことはやめようと思うのです。

ぼくは彼の初期の頃しか知りませんから「エンケン」さんという呼び方には馴染みがないので。

R.I.P 遠藤賢司さん。

Enk

***

先の夜。
神谷町という町で理容師をしている旧い旧い友人のお店で散髪して貰った。

コートのポケットの中の手が冷たくて、灯の入った東京タワーを左手に見た先の夜。
冬が来た、そう思った。この景色は自分には冬のもの。

初めての東京タワーが冬だったからね。いつまでも憶えてる、幼稚園の時分。
今みたいにカラフルな灯じゃなくて、暖色のひと色だった。暖かな山吹色。

昭和33年、333メートルのこのタワーは12月23日に竣工し、ぼくはその5日後に生まれた。

日比谷線、丸ノ内線とメトロを乗り継いで、ふと自分はほくそ笑んだ。
いつもなら四谷で中央線に乗り換えて帰路につく。
しかし丸ノ内線、、終点はそう言えば荻窪。

これはしめた。しめしめしめこのしめ兎。しめこのうさうさ、などと呟きながら四谷をやり過ごす俺。
何故ならば、荻窪に何か用事はないかな、と常に思っているからである。
何故ならば、大好きな「つまみや」があるからである。荻窪に住んでいたならば、きっと週に4回くらいは行ってしまいそうだからである。
しかも散髪したてで髪型には自信がある。ちょびっとお洒落な格好もしている。

いや。
立ち呑み屋です。普通の。
立ち呑み屋ならば世間にたくさんある。国分寺にだって2軒ある。
なんで「つまみや」なのかは自分でも良くわかりません。でもそうなんだから。
あぁ、恋には理由なんかないから。んん、そうですねぇ、そりゃそう。

金宮焼酎をコダマバイスで割って一息ついて。
お腹の空き具合が嬉しい。
牛肉豆腐をするする食べて、もう一杯。
中、つまり焼酎だけは100円玉持って自販機に買いに行くのね。金宮、霧島、樹氷、トリスと色々選べる。
おでんの大根と卵を貰うついでにバイスをもう一本。今度はこれで3杯呑もうと決める。
んん、まだ何か食べたいなと思い、カウンター向かいの人がさっき頼んだカニクリームコロッケを盗み見る。
そうして必ず食べようとこころに誓った。

Tuma
自分は小遣いを1600円遣った。
5杯呑んで3皿食べてこのお値段。だがつわものは1000円でこの酔いに到達すると云う。
「修行が足りぬわ、莫迦者め~」と和尚に扮した志村けんに怒鳴られた自分は、それでも機嫌良く帰路についた。

とまれ、年末がやって来た。
断線していた玄関灯、使えなくなっていたインターホンはさっき電気屋さんが来て修理してくれた。
ぼさぼさだった松の木や梅の木にも植木屋さんが入った。

Matsu
Gen
少しづつ溜まって気にかかっていた暮らしのちょっとした引っ掛かりがすっきり。
夕べはお気に入りの友人カップルが遊びに来てくれて、非常に楽しい宴になった。生ワインの一升瓶はすぐさま空になって、その後も発泡ワインを飲み続けて、いつの間にか眠ってしまっていた。
明後日の晩は、血こそ繋がっていないけれど、濃密なバリ島の空気で繋がっているぼくの家族と言ってしまっても良いひとたちが我が家に集合する。大集合。

浮かれ騒ぐ年末。でも今日は静かな一日だろう、の誕生日。

Ne02

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2017年9月26日 (火)

ときどきトランス日記 No.78 / 夏終わる。いや、毎年夏は終わるのだけれど。

でもまるで合図みたいに大きな台風が来て、台風一過して終わっちゃうね、夏。

でも夏の終わりたての、今日みたいな晴天の日はいい。
淹れたての熱い珈琲に羊羹とかね。
ちょっぴり淋しいこころ持ちも和むってもんだよ。

なんだか楽しみにしてたホンの短い旅行もあっという間。刹那に彼岸の向こう。
だからね、その名残は自分に買ってあげたお土産の泡盛に混ぜちゃった。

沖縄なんて初めてだったんだよ。
映画でしか知らなかった土地。
それも30年も前に観たような映画の印象。
「パラダイスビュー」とか「ウンタマギルー」
奇譚。
そう云う言葉があるのか知らないけれど、奇想譚。
んん、シャーマニズムですね。とかアニミズム。

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しかし初めての沖縄は先の台風18号の名残たっぷり。
波浪は強風に沸きたって海は怖いくらいだったし、頭の裡の縹色は初日から分厚い鼠色の空と粘土色の水のうねりに消えてっちゃった。
突風で霧になった海水で視界は白く霞んでて、髪も身体も風に絡まれてべたべただ。

けれど、飛び込んだ土地の居酒屋はこの世の天国っぷり。
そうして、こよなくこよなく旨かった。
オリオンの生ビールとこっちじゃ見たこともない泡盛の水割りをぐいぐい呑んで。
それで食べたこともないような食べ物が目の前にどんどん運ばれて来るのね。
そうか、自分は沖縄に呑みに来たのだぁ、と少し強気な気持ちになって。

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そろそろ辺りが曖昧になって来る頃、風に吹き飛ばされながら歩いたら、もう一軒。

「旅に出たらまず喰い物ですね」細野晴臣扮する学者「イトー」の台詞をいつまでも憶えてる。旅に出るといつも思い出す。

借りているヴィラで眼が覚めたらもう翌朝。
そういや、夜中に近所のハンバーガーショップに息子と行ったよなぁ、、A&W
これはマレィ半島にはたくさん出店していて、毎日行っていた。ぼくはここのルート.ビアが大好き。
舌に沁みついた熱帯の味なんだ。

洞窟でシュノ―ケリングは中止の連絡。どころか海水浴場はどこも遊泳禁止です。
独りの旅ならば、もとよりそんな処へは行かないけれど、家族旅行。しかも8人の大所帯。

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でも車で走るのは気持ちが良かったし、小さな島に渡ってみたらば、見たかった景色がいくつもあった。
変わらず風はあったし、空は南国的にどんよりとしていたけれど、厚い雲割って時折覗く空の青さがかえって沁みた。

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いやしかし、この日記、いっつも飛び飛びだけれど、今回は5ヶ月振りくらいだ。
前回はお花見のこと記してたからね。
じゃあこの夏はナニにしてたのか、って言うとね、去年から一生懸命楽し苦しく準備してきた小説を7月に出版出来てね、その本眺めてはにやにやしてただけなんです。
だってホントに嬉しかったからね。

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だから不評だったらしい今夏だけれど、ぼくにとっては良い夏だったんです。

あぁ、もう大分麻痺して来てるんだな。
明日戦争で死ぬかも知れないのにね。もうそう云うことが現実的にすぐ傍にあるのにね。
独りで死ぬわけじゃないから?
大勢のなかのひとりだからさ、しょうがない?

もう、それはそれとしてって、世の中は稼働しているし、それしかないのだとぼくも思う。
一触が即発してしまえば、もう誰にもどうすることも出来ない。終わり、しかないのだからね。

これはある種の「苦しみ」なのだと思う。
状況への麻痺と云う。取り敢えず忘れると云う。いままであまりなかった苦しみ、と思う。
戦後、この国が経験してこなかった苦しみ。震災や原発事故でも味わわなかったろう苦しみ。具体的な行動を持って行く場所がない。どころかナニをすれば良いのかもわからない。
反対!許さない!認めない!って、、いや、何を?
その相手が全然見えてこない、筋道も見えてこない。
だから取り敢えず反対なのだ。反対の賛成なのだ。賛成の反対なのだ。
と。
バカボンパパになってしまうのだ、、

そんな時に画家である親しい友人の個展を観に行った。

苦しみの除去に関する印象を強く感じた。
個人の苦しみって云うのは、世界の苦しみを遥かに凌駕して深いのだと感じた。
だが同時に、世界はそう云う個人の苦しみの集積だ。そう云う世界をカッタ―ナイフで切り裂いて内的宇宙を見せるアーティスト。
世界の心象を自分へと置き換えて表現できる、それこそがアートの本質だろう。
彼はその場所へと着地していたのだと思う。だが、ここまで出してしまったのだから、次の場所へと移動がなされるのだろう。
だから自分は目を離さずにいたいと思う。先をぼくにも見せて欲しいと思う。

Baba1Baba2
とまれ、苦しみがなければ、その対極にある幸福は存在できないのだと印象づける作品たちだった。
現在のこの世界と彼の作品を関連付ける気持ちはない。ただ、シンクロニシティという言葉が浮かぶばかりだ。

「これで一区切りと云うかね、明るい絵に向かい始めてるんですよ」
そう言いながら美味しそうに酒を呑む彼を憶えていたい。
苦しみと徹底的に向き合わねばならない苦しみだったんだね。

画廊のある銀座の古い古いビルからから丸ノ内線で荻窪へ。
目下、一番のお気に入りの立ち呑み屋があるからね。でも国分寺住まいの自分には用事のない町。それが残念でならないのね。

何か荻窪に用事ないかな。

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2017年4月30日 (日)

ときどきトランス日記 No.77 /  春の約束。

満開だった梅の花も終わって、あんなに咲いてた桜ももうとっくにお終い。
ちょっと寂しい気持ちになりかけていたらば。

庭のかなりの高齢とおぼしき梅の木に、気づけば梅の実がたくさんだ。
おぉ、自分で漬けた梅酒はさぞかし旨かろうと直ぐに気持ちも膨らむのだが、家人の言うには、
実が小さいうちにみな落ちてしまうのもあるのだそうだ。だからぬか喜びは早いのだと。

だってこの老木に花が咲くのも、実がなることも自分たちには初めてのことだからね。

築41年のこの古い家に越してきたのは2月の頃。
古い家なりに満ちていた「気」のようなものと折り合いをつけるのには少し苦労をしたけれど、
梅の蕾が膨らみはじめて、あれよあれよと言う間に満開になった時は本当に嬉しかったなぁ。
あまりに歳取った風貌だったからね、花が咲くなんて思ってもいなかったから。
おまけに実までたくさん。

Nh2
この家にして良かったなぁ、としみじみ思う。

住処を探すのって言うのはホントに楽しい。
今回も凄く楽しかった。
休みの度に家人と色々な物件を見て周った。
古い家、新しい家、化け物屋敷みたいだけど妙に惹かれる家とか。

物件に入るたびにわくわくするのは、そこで生活している自分を想像するからなんだね。
あぁ、この部屋でご飯食べるんだよなぁ、とか、このスペースにちょっと座れるとこ作ってさ、
お酒飲みたいなぁ、とか、とか、とか。わくわく。

新しい家は綺麗だし、何から何まで快適そうに見える。
でもね、何処も隣家との距離がぎりぎり。その一点が全部の快適さを上回る不快適。
間取りなんかも無駄がないから余白もない。
呼吸困難の家屋。楽しい暮らしの想像がどんどん萎む。
でも古い家には無駄がたくさんあって、その空いたところに気持ちが入り込んで、ひと息ふた息ついて、
のびーっと出来る。

たくさん見てたくさん想像したら、ふたつの物件が残った。

国立ど真ん中、商店街の切れる辺りの、店舗、住居が入り混じったビルの最上階。
リノベーションしたてでぴっかぴか。真っ白な部屋が続いてて、その先には20畳、いやもっとかな、
ひろーいルーフ.バルコニーのついたマンション。
真冬であろうとも、自分はきっとそのバルコニーでご飯を食べ酒を呑むであろう、とは充分に考えられた。
しかも1階はもんじゃ焼き屋でね、それも嬉しい。
国分寺に戻ってからは、こっちの方が近いので、外で食べたり呑んだりはいつも国立だった。
それに餓鬼の頃からお気に入りの町。
高校生の頃は女の娘とおおっぴらにデートするのは吉祥寺、こっそりするのは国立だったからね。あぁ、
この話は前にしたっけ。

でもね。

この家。
駐車スペースの脇に、大きな松の木が生えている。
まずこれが気に入った。堂々としている。
そして件の梅の老木。
どちらもこのくらいになれば某かの精が住んで居るに違いない、と思う。

案内してくれた不動産屋が鍵を忘れて取りに行っている間。
自分と家人は古びた縁側に座っていた。
冬の最中の、でもぽかぽかと陽の当たる真昼の、止まっているみたいな時間。
袋小路の奥まった場所。しーんとしている。
家の中はまだ見ていない。
でもその時間のなかで、自分たちはこの家に住むのだろうと思っていた。

Me1

春一番が僕たちの住む春待ち袋小路の家を揺すってる。
この通りには家が9軒ある。
で、どの家もが同じ住所。不思議。
ところで、息せき切って通りに走りこんだ風は出口なし。だって袋小路だからね。
だから戸袋の中に飛び込んで慌ただしく雨戸を鳴らして逃げていく。

ならば花見だな、そろそろ、と思う。
帰国してからは毎年我が家主催の花見が恒例になっている。

でも今年の花見は特別だ。いや、今年から、だな。
去年死んでしまった仲間と交わした最後の約束が花見だったからね。

今年の花見からはもう大分時間が経ってしまったけれど、直後にFBに投稿したものがあるので、
忘れたくないので此処にも記そう。

4月8日(土)
昨夜半から小雨が続いている薄暗い朝だ。
けれど庭先で鳥の囀りが雨音に混じっているので希望も感じている。

はは、満開だぜ、けん。
さっそく一杯飲ろうじゃないか。

「俺はこんだけロックやれてるしな、ちっとも可哀想じゃないぜ。でもそうだな、それ以外じゃ、
もういっぺん桜を観たかったな」

去年の5月16日に言っていた奴の言葉。
そして10月に入り、4日へと日付けが変わる頃、それだけは叶わずに完全なる自由な世界へリリースされてった奴。

自分はその言葉にこのように答えたと思う。

「ならば付き合うぜ。
先進医療のドクターだって知らない世界で付き合うぜ」

Hn
狙った訳じゃない。
けれど気付くとけんのグラスに花が落ちている。
こころねの優しいちび達もいたしな、奴らの悪戯かもな。
でも皆が言ってくれた、グラスのワイン減ってるよって。

多分、20年くらい以前のこと、スプラッシュ.シンバルが凄く欲しかった。
だが自分は海外に居り、あんまりお金もなくて。
たまたま帰国した折に一計を案じ、けんに聞いてみた。

「ねぇ、割れちゃったシンバルとか持ってない?」

そうして自分は、外径にヒビの入ったJildjian社のチャイナ.シンバルをバリに持ち帰った。
鉄工所に持ち込み小径のシンバルに加工するこころづもりだったが、何処でも断られ、最終的に自分は
強力な金切り鋏を手に入れ、苦労して加工した。

ライブでもレコーディングでも随分使ったそういうシンバルをけんに見立てた。
「見立て」は最も美しい日本の文化のひとつだしな、ちょっといいだろ、花見には。

けん、また来年も連れて来てやるからな。

Hn3
Hn4

この日記の如きを読んで頂いた皆さんへ。

漸く色々と片付いて、お客さんをしても良いような感じになりました。
僕の通っていた国分寺第一小学校のほど近く、そして小金井市と府中市に国分寺市がゆるゆると出会う辺り、
と言ってもわかりませんね。
国分寺駅の南口から歩いて15分ほどの処です。

Pl1

ところで1976年に建ったこの家は、当時のモダ―ン感覚いっぱいの注文住宅だと思われます。
41年の時を経て、それがじわじわレトロモダ―ンに変容して、偏狭な自分の趣味にぴたりと来たのです。
とっくに使用不能になっているウォシュレットや床暖房の設備。ビルトインされてるオーブン。
でも和室には床の間に雪見障子だったり。古臭い玄関灯があったり。

Re2
Re
どうぞ遊びにおいで下さい。
さて、おいしいお酒でも用意しておきましょう。

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2016年12月30日 (金)

ときどきトランス日記 No.76 / 2016年12月29日にぼくはダウン。

昨日の28日は僕の誕生日でした。
たくさんのお祝いの言葉を頂きました。

そう云う日に自分はインフルエンザを発症してしまい、年末の仕事も楽しみもなくなって。
けれど、そういう日にもっともっと悲しいことが起こっていました。

大好きで大好きで大好きな、ピエール.バル―がもう居ないんだよ。
2016年は残酷な年だった、のだろうか。
いや、そう思いたくはない。

でもこころのきまりがつかないんだよね。

うん、もう熱は下がっているんだよ。
でもね、周りへの迷惑を避けなくちゃいけないからね、3日程は外へは行けないのね。

色んな事があり過ぎた2016年がもうすぐぼくの裡から出ていって、ぼくのうしろに積み重なる。
大切な友人を癌で亡くし、そう云う自分も癌なんかになって、でも生き残った。

「ひとは何処から来て何処へゆくのか」

この人生の大命題には、嫌でも向き合わざるを得ない日々もあった。
答えなぞ見つかるはずもない、勿論のことだ。ただ黙って向き合うのみだ。

でもね、ぼくのライフワークでもある音速珈琲廊以外でも、ひとつ豊かな収穫を得た。

11月19日 PeaceFlag@ナタラジ荻窪

良い晩でした。

10年程ギターを弾いていない。しかし今宵の曲「PeaceWalk」はギターでなければならず、自分はだいぶ一生懸命に練習を行った。
けれどやっぱりね、気持ちが先へ先へと急ぐので、色んな思いも深過ぎて、思ってたほど上手には弾けなかったよ。

それでもやっぱり、良い晩だったんだよ。

数年毎に不思議な巡り合わせでbunと共演する。
そのことに意味づけることを無理にせずとも、あぁ、そうなんだな、とぼくは納得する。
その時そのような音が紡がれるから。

そうして、小泉ちづこと云う不思議なダンサー。いつか一緒にやってみたいなと思っていた機会が存外早くに訪れた。
自分はそれを真後ろから観ているわけで、白い幻の如きモノが可成りのスピードで視界のあちこちを移動してゆく。
彼女の踊りはたとえゆったりとした動きの場面であろうとも、その裡に速度が満ちている。音速の如き。

Nata1

町田さんのスティールパンのきらきらした薄い繭が場を包む。ツトムさんのジャンべの土の匂い。
bunのネイティブアメリカンフルート、ぼくの気持入り過ぎのギター。

ひとつ、になること。

PeaceFlag!
旗は振るもの。平和に向けてこの晩それは、ゆっくり大きく振られました。
旗はその下(もと)に集うもの。会場はこの晩その下、ひとつになりました。

Nata2
そうして、これに参加したアーティストがそれぞれの思いをフライヤーの為に寄せたのですが、ぼくの寄せた一文が以下です。
自分の音楽表現のかなり大きな部分を占めるルーツの如きものなので、書いておいて良かったなと思っているのです。

ーーーーーーーーーーーーー

やっぱり2001年ですね。9月11日のN.Y
世界が変容し始めた、っていうのを皆が強く感じ出したのは、、

僕はそう思うのです。

その頃、Bali島のUbudという村で妻と3歳になる息子と呑気に暮らしていたのですが、その幸せな暮らしに暗い翳が射してしまったことを憶えています。

そして翌年の10月12日。
この島一番の繁華な通りで爆弾テロが起こり、200人以上の死傷者が出ました。
N.Yの次の標的がBali島だったことに強い衝撃を受けました。

事件翌日の異様な空気、まるで時間が停止してしまったような町や村の空気をいまでもはっきりと憶えています。
平和な世界がぐしゃりと潰れ、自分の暮らしさえもがそのまま雪崩れてしまうような気がしました。

そしてすぐに島のあちこちでテロへの抗議、平和へのアクションが起こり、僕もその渦に捲かれてゆきました。
音楽=平和を強く意識し出したのもこの頃なのだと思います。

Ubud村は内外のアーティストが多く居住する特異な地域で、すぐに大きなピースフェスティバルが企画され、自分は日本人コミュニティーのステージの音楽監督をしていました。
そしてピースフラッグの為に、欧州からの帰りにバリに立ち寄ったBunと出会ったのです。

僕はバイクの後ろに彼を乗せ、そのリハーサルの最中の我が家まで連れて行きました。
何か、背中に暖かくて大きな、未知なる動物がくっついている、そんな感じがしていました。

爆発現場から聖アグン山までのピースフラッグ、その道程で生まれたと云う「ピースウォーク」この曲に籠もっている平和への希求はとてもおおきなもの、と思います。

この曲にギターで寄り添えた、どころか長い時を経て、また演奏できるなんて!

こんな時にさえ、音楽は喜びを与えてくれる。
彼とセッションやライブを重ね、それにぼくの参加していたPlanetBambooというグループでも演奏してして貰い、そのどれもが自然に自然に流れていって、音楽の魔法が作用する一瞬一瞬が巡って。

けれどどんな物語にも終わりはある。
僕たちは其々の暮らしに戻ってゆきました。
ぼくは村の生活に、Bunは東京へと。

そうして更にその翌年。
N.Yでオーガニックフードの大きなイベントがあって、それの音楽を担当して欲しいと、何故かぼくの様な者のところに依頼があったのですね。

すぐに思い浮かべたのはあの暖かい大きな動物、Bunでした。
ふたりで演りたい、そう伝えました。

6月の雨のそぼ降るN.Y
貿易センタービルの在った場所はまだ瓦礫の残る地面でしかなく、隣接していただろうビルが、その面だけ真黒に焼け焦げて、巨大な墓石のように雨に濡れて建っていました。
Bunと僕も濡れながら其処に立ち尽くし、9月11日に戻されて。

そしてそのイベント。

道郎さん、これ。と言ってバリから帰る日に手渡してくれた自作のカリンバ。
いまでは僕の音楽表現の重要な楽器のひとつ。
そのカリンバ、リンディック、ギター。Bunはネイティブアメリカン.フルートとカリンバで、2時間40分ノンストップの演奏でした。

とまれ。

世界の変容は誰にも止めらなかった。そうして、いま、に繋がっている。
そしてそれは、いま、のすべての芸術表現に繋がっているのだと思います。

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12月23日@横浜エアジン「音速珈琲廊」

毎年クリスマスには、この古い古い音楽のお堂で演奏させて貰っているのです。
ぼくの知る限り、一番音の良い処。日本一、世界一。自分の小さな世界だけど。

マスターの實さんはぼくにとっては宮司さんみたいなひと。
そうしてこの音の良さは何故なのだろうと考えると、結局件の人生の大命題に近づいてしまう、、

しかし、お堂と云うのはお寺にあるもので、宮司さんは神社の偉い人だ。
だから本当はお堂ではなくて祠、と言うべきなんだけれど、まぁ、それはいいね。うん、お堂、御堂ね。矢張りぴったりだ。
で、宮司さんも矢張りぴったりなので、もうそれで。

Photo

カリンバの音が濡れている。とても美しい光景だ。
冬は乾いた音が出るリンディックでさえ、素敵に湿り気を帯びている。
この古いお堂は水の滴る豊かな森へと続いているのだ。

いつかこの森でBunやちづこちゃんたちと一緒になってみたい、そう言うと、宮司さんはにこにこしながら
「楽しみにしてるから」と仰って下さった。

今年がぼくの裡からそろそろ出てゆこうと準備をしている。
うん、そうだね、悪いことばっかりじゃなかったよ、だから笑って見送るよ。

Photo_3

追伸。

素敵にレトロな一軒家を見つけたんだよ。庭先に大きな松の木が生えているみたいなさ。
うん、少し苦労をしたけどね。

ぼくの通っていた小学校のすぐ近くでさ、やっぱり松だよね、古い家って。1976年に建った家。
来年は此処に引っ越すんだ。家族3人で。
息子の大学がようやく決まってね。本人も苦労をしたし、家族も何だかもやもやと心労の日々だったな。
だから寮生活はお終い。
15歳で家から出したのは、互いにとって早かったかな?と思うことも何度もあったんだけどね、良いことだってたくさんあった。

Mo
落ち着いたらお知らせしますね。
森伊蔵はもう呑んでしまったけれど、何かおいしいお酒を用意しておきますから。

是非一度お寄り下さいませ。
それでは良いお年を。  

michiro-U.

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2016年10月18日 (火)

「 Easyrider物語#最終回 / Ken’s Dial~帰路 」

物語には始まりがある限り、どうしたって終わりがある。
ひとが産まれて、そして死んでゆくように。

だからこの物語にも決まりをつけねばならない、そうは思うのだけど。
こころの決まりはそう簡単につくものではない、と知った。

あれからまだ2週間しか経っていないのか。

あの晩遅く、日付けが4日に変わってからまもなく、けんは完全な自由な世界へとリリースされたんだ。

あの晩のことはやはり書かねばならない、と思う。
そうしてこのEasyrider物語も終わらせねばならぬ、とも。

熊本の日赤病院へ9月8日に転院してから26日間のあいだ、我々は毎晩時間を決めて電話で会話をした。グループ通話という、フェイスブックのメッセンジャー機能を使った自分にはよくわからない仕組みなのだが、同時に何人でもが電話で会話可能なのだ。
明実がそれに「Ken's Dial」と名付けた。
Easyrider、そのロックの絆たち、友人たち、けんの熊本の家族たちが毎晩けんの病室に集った。

毎晩8時半になると、あー、そろそろ Ken's Dial始まるなぁって。
体調が少しでも良いと、けんはいつまでも会話をしたがったし、こちらも酒を呑みながらつきあった。

だがけんは電話の向こう側で少しづつ弱っていった。段々会話の時間が短くなっていった。
10月の1日にはもう囁き声しか出せず、2日の通話は、ちゃんと聞いているよって云う意思表示だけだったと記憶している。
そして3日の最後の通話。
肩呼吸が始まっており、もう聞いているのかどうかもわからない状態になり、我々は其々の裡で覚悟を決めたのだ

と思う。

そして4日へと日付けが変わる頃、最後のKen's Dialが性急に招集され、皆が呼びかけるなか、家族が見守るなか、けんは呼吸を止めた。脈を打つことも。

あぁ、とても疲れた、、
うん、疲れちゃったねぇ、すごく。

家人と少し話をしてから眠った。
その日は二人とも勤務だし、火曜日だから皆もきっと。

突然の別れではなく、時間をたっぷりかけて、ゆっくりと別れたのだ。
こころおきなく別れたのだ。
だから急激な悲しみには襲われない。大丈夫だ。悲しさはきっとゆっくりと訪れる。

翌日からぽつぽつと通夜や家族葬の写真や動画が届く。

ところで自分は職業柄、かつてそのひとであった、いまはそのひとの魂の容れ物でしかない、そういうBodyに触れる機会が多い。
だがそれは、まったくの他人であるからこその感覚なのかもしれない。
写真で見るかつてけんだった身体は、やはりけんのように見えた。

とまれ。

けんの魂は何処かに在り、いまではその身体は消滅している。
けんのことを忘れることはないので、それはやはり魂のホンの一部をけんは自分の裡に残していってくれたのだろうと思う。

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自分にとっての2度目のロックの季節(なんて幸せな!)はこれでお終い。
そろそろ自分のやるべき音楽に戻らねばならない。
いや、音楽に限らず、其々が自分の暮らしに戻らねばならない。

だが、この2年間、なんという2年間だったことか。
泣いたり笑ったりの。こんな歳になってさえ!

たくさんのことを知り、そしてそれを永遠に失うための2年間。
だから忘れることなんて出来っこないだろう2年間。

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ハートに沁みて来る苦い酒だろ、暫くは。
それでもそれを味わうぜ、構わないからどんどん持って来てくれよ。

10月15日(土)@茨城「ねこ屋」

去年のクリスマス以来の音速珈琲廊のライブ。
色んなことが重なって、自分は癌なんかにもなって、長くライブが出来なかった。

ぼくのライフワークと言ってもいいこのユニットはしかし、消滅を免れた。
ぼくはやはりぼくの音楽の場所へと帰らねばならないのだ。

Ne5

此処で演るのは6年振りだが、何故か自分の歩く道の分岐点の如くの場所にいつもこの店がある。
ぼくは迷わず立ち寄り、音楽を演奏するだけ。
そうしてまた歩き始める。どの方向に進めばいいのかは何故かその時にはもう決まっている。

Ne6

ぼくはまた歩き始めた。

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2016年9月13日 (火)

EasyRider物語 #13 / スタジオへと昇る狭い階段を降りながら俺は。

4月の、、28日だったか。
ライブ前の最終リハーサルだったが、最後のバンドリハーサルになってしまった。

自分にとってはその5日後のライブよりも、この晩の印象の方が強い。
スタジオへと昇る狭い階段を降りながら俺はとても悲しかった。これできっと最後なんだろうと。
その感情をいつまでも、これからもずっと憶えているんだろう。
それは。
バンドへの感傷。ロックへの感傷なのかも知れない。

ドラマーのけんは、今は熊本の病院で完全な自由を手にする日を待っている。
あとどのくらいの時間がそれまでに残されているのかはわからない。

奴はもう充分に戦った。激しく、厳しく。望み通りのドラマーとして。
医療従事者たちから見れば、こんなことあり得ない、奇跡みたいなこと。だが3度もやり通した、やり遂げた。
その時のプレイは末期癌であることのハンディなど微塵もなかった。

3度もだぜ、、!

けど。
夏になるとけんは急激に衰えた。
皆が季節の終わりを感じ始めていた。ロックの季節の終りを。
この夏は、事あるごとに皆が集まって盛大に宴をやった。だってそんなの嫌だったから。
そのうちけんはまた入院をしたが、それでも病院を抜け出して、勿論参加したさ。
宴はバンドのメンバーの家をぐるぐると巡って。

だがそういう騒ぎにも翳が射していった、けんは動けなくなっていった。

ならば、と今度は皆が病院へと騒ぎの場所を移した。
それが迷惑にならぬようにと、なんだか高そうな個室にけんは移ってくれた。
熊本への転院が決まった東京での最後の10日間は連日友人が押し寄せた。

ひとが、仲間が一緒にいると元気が湧くのだと、輸血を受けながら笑っているこの男。
こそ、俺たちは付き合った。
嘆き、泣き、天を恨む。そういうことはもう乗り越えている。
こそ、俺たちは再び集まった。

ところで俺は他人の人生の一部を背負いこんでしまった、、
それはこういうことだ。
身辺の整理を少しづつ始めていたけんからある時、こんな依頼があった。

自分のレコード.コレクションを纏めて引き取って欲しい、と。
まぁ、CDは良いのだけれどね、これだけは処分する気になれなくて、と。

そりゃそうだろう。
だってそれは人生の重要な一部だからな。
そしてバンド内でそれが出来るのは自分しかいないってこともわかってる。

自分のレコードコレクションも1000枚程が実家の物入れにある。あるとき2000枚を越えて、もうそういうのが嫌になって半分を処分した。でもいまになってそれを悔やんでいる莫迦、という苦い思いで生きている。

だから今のこの狭い住居では、、と最初躊躇したけれど、結局は受け入れた。
家人もそういうことなら、と快諾してくれた。

何故それが自分にしか出来ぬなどと、かくもおこがましいことが言えるのか?

それはね、そのコレクションにはね、ロックもたくさんあるけれど、古いソウルミュージック、それもフィリーソウルと呼ばれる、コアなソウルファンからは毛嫌いされているやつなんかがかなり入ってるんだ。
それにメインストリームではない、かなりアンダーなレゲエバンドのものも多いはず。
明実や竜はまず聴かないだろう音楽。
だが、その様な音楽でも、自分とけんは好みが重なることがあった。

けんと初めてバンド仲間になった頃、良く音楽の話をした。
互いに、え?こんなの聴くの?こんなの知ってるんだ?じゃああれは?なんて話良くしたな。
レコードも借りたり貸したりしあったな。
まだまだCD前夜の頃だ。

この事に当たって考えた。
もしけんが、これは処分したくはないので、皆ですきなのを何でも持って行ってくれ、としたならば、自分は受けなかったろう。
だがけんはそうせずに、全部を、と言って俺が家に来るのを待っていてくれた。
All or Nothing..
その意味は大きい。

とまれ俺は。

けんの人生の一部、レコード800枚余りと、段ボール4箱分のCDを背負い込んだ。
まだすべてのタイトルを確認していないし、一緒に引き取ったターンテーブル、アンプ、スピーカーもそのままだ。
残念ながらセットする場所がないので、せめて埃にならぬよう、ビニールに包んで置いてある。
我が家は引っ越し前の家みたいになっているが、それも覚悟の上だった。

9月8日(木)羽田空港。

めそめそした別れにはならなかった。
たとえけんが車椅子だったとしてもね。
ドラマーだしな、座位でロックしてる姿が眼に焼きついてるからな、笑ってそうやって座っていても良いんだよ。

Dr1_2

Ha7_2
Ha8_2

さらば、友よ。
夏が終わる。
2年前の秋、9月22日起点の「ことのはじまり」が終わる。
何と云う2年間だったことか。

たくさんのことを知り、そしてそれを永遠に失う為の2年間だったんだと思う。

病院のベッドで、車中で、路上で、曖昧な酩酊の裡で、世界中のあらゆるところで、職場で、夢の中で。
何処かで。

きっと。
何処かで、また会える。

Keep on Rockin' in the Free World !
二ール.ヤングが叫ぶように、祈るように歌ってる。

聴こえるだろ。けん。

Dr2

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