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2016年12月

2016年12月30日 (金)

ときどきトランス日記 No.76 / 2016年12月29日にぼくはダウン。

昨日の28日は僕の誕生日でした。
たくさんのお祝いの言葉を頂きました。

そう云う日に自分はインフルエンザを発症してしまい、年末の仕事も楽しみもなくなって。
けれど、そういう日にもっともっと悲しいことが起こっていました。

大好きで大好きで大好きな、ピエール.バル―がもう居ないんだよ。
2016年は残酷な年だった、のだろうか。
いや、そう思いたくはない。

でもこころのきまりがつかないんだよね。

うん、もう熱は下がっているんだよ。
でもね、周りへの迷惑を避けなくちゃいけないからね、3日程は外へは行けないのね。

色んな事があり過ぎた2016年がもうすぐぼくの裡から出ていって、ぼくのうしろに積み重なる。
大切な友人を癌で亡くし、そう云う自分も癌なんかになって、でも生き残った。

「ひとは何処から来て何処へゆくのか」

この人生の大命題には、嫌でも向き合わざるを得ない日々もあった。
答えなぞ見つかるはずもない、勿論のことだ。ただ黙って向き合うのみだ。

でもね、ぼくのライフワークでもある音速珈琲廊以外でも、ひとつ豊かな収穫を得た。

11月19日 PeaceFlag@ナタラジ荻窪

良い晩でした。

10年程ギターを弾いていない。しかし今宵の曲「PeaceWalk」はギターでなければならず、自分はだいぶ一生懸命に練習を行った。
けれどやっぱりね、気持ちが先へ先へと急ぐので、色んな思いも深過ぎて、思ってたほど上手には弾けなかったよ。

それでもやっぱり、良い晩だったんだよ。

数年毎に不思議な巡り合わせでbunと共演する。
そのことに意味づけることを無理にせずとも、あぁ、そうなんだな、とぼくは納得する。
その時そのような音が紡がれるから。

そうして、小泉ちづこと云う不思議なダンサー。いつか一緒にやってみたいなと思っていた機会が存外早くに訪れた。
自分はそれを真後ろから観ているわけで、白い幻の如きモノが可成りのスピードで視界のあちこちを移動してゆく。
彼女の踊りはたとえゆったりとした動きの場面であろうとも、その裡に速度が満ちている。音速の如き。

Nata1

町田さんのスティールパンのきらきらした薄い繭が場を包む。ツトムさんのジャンべの土の匂い。
bunのネイティブアメリカンフルート、ぼくの気持入り過ぎのギター。

ひとつ、になること。

PeaceFlag!
旗は振るもの。平和に向けてこの晩それは、ゆっくり大きく振られました。
旗はその下(もと)に集うもの。会場はこの晩その下、ひとつになりました。

Nata2
そうして、これに参加したアーティストがそれぞれの思いをフライヤーの為に寄せたのですが、ぼくの寄せた一文が以下です。
自分の音楽表現のかなり大きな部分を占めるルーツの如きものなので、書いておいて良かったなと思っているのです。

ーーーーーーーーーーーーー

やっぱり2001年ですね。9月11日のN.Y
世界が変容し始めた、っていうのを皆が強く感じ出したのは、、

僕はそう思うのです。

その頃、Bali島のUbudという村で妻と3歳になる息子と呑気に暮らしていたのですが、その幸せな暮らしに暗い翳が射してしまったことを憶えています。

そして翌年の10月12日。
この島一番の繁華な通りで爆弾テロが起こり、200人以上の死傷者が出ました。
N.Yの次の標的がBali島だったことに強い衝撃を受けました。

事件翌日の異様な空気、まるで時間が停止してしまったような町や村の空気をいまでもはっきりと憶えています。
平和な世界がぐしゃりと潰れ、自分の暮らしさえもがそのまま雪崩れてしまうような気がしました。

そしてすぐに島のあちこちでテロへの抗議、平和へのアクションが起こり、僕もその渦に捲かれてゆきました。
音楽=平和を強く意識し出したのもこの頃なのだと思います。

Ubud村は内外のアーティストが多く居住する特異な地域で、すぐに大きなピースフェスティバルが企画され、自分は日本人コミュニティーのステージの音楽監督をしていました。
そしてピースフラッグの為に、欧州からの帰りにバリに立ち寄ったBunと出会ったのです。

僕はバイクの後ろに彼を乗せ、そのリハーサルの最中の我が家まで連れて行きました。
何か、背中に暖かくて大きな、未知なる動物がくっついている、そんな感じがしていました。

爆発現場から聖アグン山までのピースフラッグ、その道程で生まれたと云う「ピースウォーク」この曲に籠もっている平和への希求はとてもおおきなもの、と思います。

この曲にギターで寄り添えた、どころか長い時を経て、また演奏できるなんて!

こんな時にさえ、音楽は喜びを与えてくれる。
彼とセッションやライブを重ね、それにぼくの参加していたPlanetBambooというグループでも演奏してして貰い、そのどれもが自然に自然に流れていって、音楽の魔法が作用する一瞬一瞬が巡って。

けれどどんな物語にも終わりはある。
僕たちは其々の暮らしに戻ってゆきました。
ぼくは村の生活に、Bunは東京へと。

そうして更にその翌年。
N.Yでオーガニックフードの大きなイベントがあって、それの音楽を担当して欲しいと、何故かぼくの様な者のところに依頼があったのですね。

すぐに思い浮かべたのはあの暖かい大きな動物、Bunでした。
ふたりで演りたい、そう伝えました。

6月の雨のそぼ降るN.Y
貿易センタービルの在った場所はまだ瓦礫の残る地面でしかなく、隣接していただろうビルが、その面だけ真黒に焼け焦げて、巨大な墓石のように雨に濡れて建っていました。
Bunと僕も濡れながら其処に立ち尽くし、9月11日に戻されて。

そしてそのイベント。

道郎さん、これ。と言ってバリから帰る日に手渡してくれた自作のカリンバ。
いまでは僕の音楽表現の重要な楽器のひとつ。
そのカリンバ、リンディック、ギター。Bunはネイティブアメリカン.フルートとカリンバで、2時間40分ノンストップの演奏でした。

とまれ。

世界の変容は誰にも止めらなかった。そうして、いま、に繋がっている。
そしてそれは、いま、のすべての芸術表現に繋がっているのだと思います。

Photo_2
12月23日@横浜エアジン「音速珈琲廊」

毎年クリスマスには、この古い古い音楽のお堂で演奏させて貰っているのです。
ぼくの知る限り、一番音の良い処。日本一、世界一。自分の小さな世界だけど。

マスターの實さんはぼくにとっては宮司さんみたいなひと。
そうしてこの音の良さは何故なのだろうと考えると、結局件の人生の大命題に近づいてしまう、、

しかし、お堂と云うのはお寺にあるもので、宮司さんは神社の偉い人だ。
だから本当はお堂ではなくて祠、と言うべきなんだけれど、まぁ、それはいいね。うん、お堂、御堂ね。矢張りぴったりだ。
で、宮司さんも矢張りぴったりなので、もうそれで。

Photo

カリンバの音が濡れている。とても美しい光景だ。
冬は乾いた音が出るリンディックでさえ、素敵に湿り気を帯びている。
この古いお堂は水の滴る豊かな森へと続いているのだ。

いつかこの森でBunやちづこちゃんたちと一緒になってみたい、そう言うと、宮司さんはにこにこしながら
「楽しみにしてるから」と仰って下さった。

今年がぼくの裡からそろそろ出てゆこうと準備をしている。
うん、そうだね、悪いことばっかりじゃなかったよ、だから笑って見送るよ。

Photo_3

追伸。

素敵にレトロな一軒家を見つけたんだよ。庭先に大きな松の木が生えているみたいなさ。
うん、少し苦労をしたけどね。

ぼくの通っていた小学校のすぐ近くでさ、やっぱり松だよね、古い家って。1976年に建った家。
来年は此処に引っ越すんだ。家族3人で。
息子の大学がようやく決まってね。本人も苦労をしたし、家族も何だかもやもやと心労の日々だったな。
だから寮生活はお終い。
15歳で家から出したのは、互いにとって早かったかな?と思うことも何度もあったんだけどね、良いことだってたくさんあった。

Mo
落ち着いたらお知らせしますね。
森伊蔵はもう呑んでしまったけれど、何かおいしいお酒を用意しておきますから。

是非一度お寄り下さいませ。
それでは良いお年を。  

michiro-U.

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