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2015年10月

2015年10月19日 (月)

ときどきトランス日記 No.72 / 待合室で俺は。

9月17日(木)
夕べから降り続いている雨。夜通しの勤務を9時半に終えて自宅に戻り、簡単に着替えてすぐに家を出た。
今日は肌寒くてびしょびしょした一日になるらしい。

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国分寺市のTクリニックはしかし絶望的に混んでいた。
自分はひたすら待っている。午後にも行かねばならないところがある。
仕事がなければ開院時間前に着いて、こんなに待たずに済んでいた筈。濡れた衣服の裡の身体は居心地の悪さに震えている。

此処に来るのは今日で3回目。
1回目は2回目のための説明を受けて準備の品々を貰ったりしただけ。
そして2回目の9月7日。大腸の内視鏡検査を受ける。
健康診断や市の癌検診なんかで要精密検査と3回も言われてしまっている。20年前に初めて言われた。2回目に言われたのが2年位前で、次が今年の4月。
それでも、そのうちそのうち、と暮らしの襞の奥の方へと追いやってそこは見ないようにしていた。
しかし周りの状況がそういう小心者を強く押した。それでやっと向き合う気持ちになれた。

人体っていうのはひょろひょろと手足が伸びてはいるけれど、入り口と出口のあるただの一本の管だった。そこから色々派生しているけれど、結局管で賄われている。管が完全に空っぽになってみてそう思った。
夕べ就寝前に飲んだ下剤と起床してから飲み続けた2ℓの下剤で身の裡は完全に空の一本の管。口から肛門まで、もう水がそのまま通過するだけの。

ベッド横に大きなモニター画面があって、そういう我が身の裡を初めて観た。
ひとは体内に海を宿していると云われるけれど、本当にそうだった。
まずカメラは海底の海藻の林の如き場所を一瞬潜る。しかしそれは自分の肛門付近の陰毛なのだった。だからまだ入水前の筈なのだが、まるで海中の映像みたいに見えた。
そしてすぐに海中洞窟のような大腸内に到達。
カメラはうねうねと泳いで腫瘍を次々に発見してゆく。
洞窟内壁に成形された不気味な鍾乳石。内視鏡のメスでそれらを切除して、それでお終いだと自分は思っていた。大腸ポリープなどはそんなのでカタが付くと思っていた。そして確かに内視鏡その様な動きをしていたように思ったのだけれど、何か物足りない感じがする。
カメラはゆっくりと引き返し、また海藻の林をするりと潜り、僕の体内から出て行った。

ドクターの説明。
ポリープは3個あって、内ふたつが大きい、うちでは手を出せないので他を紹介するから、と。何かただ事ではない感じで嫌だなと思っていたら案の定。
ポリープは癌化している可能性があるので、生体検査の為に先ほど細胞を採取した、と。さっきのはそれだったのか。
紹介先は東京都癌検診センター、とも。
目の前が暗くなる、とはこのことだ。

10日後に検査結果が出るので、結果と紹介状持って午後に癌センターに行くようにとの指示。

辛い10日間だったな。
やはりどうしても悪い結果の方を考えてしまう。
この先の人生や生活、家族のこと、詰めれば金銭のこと、どん詰まりの先行き。そして世の中も安保関連法案の悪企みがすでにおおっぴらに加速し始めていた。
もうこれで何もかもが駄目になる、、そう思ったりもした。
苦労してせっかく着地した足許から人生がまた雪崩れてゆく、、

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雨足は強く、少しでも早くクリニックに着きたかったので車で行った。20分程の道のりだけれど、窓の外に見えるもの全てに、良い予兆を感じようとしている。
踏切や信号機、歩行者の傘、店舗の看板。ワイパーの動きにすら。
少し離れているが、確実に駐車出来るだろうスーパー併設のパーキングに入り、濡れながら急ぎ足でクリニックに向かう。

待合室ではちっとも自分の番が来ず、むしろ悪い結果を待ち望んでいるかのような錯覚を起こしていた。
徹夜明けの頭の中。
はっきりとした眠りではないが、極々浅い一瞬の睡眠状態は何度もやって来た。顔のはっきりしない白衣のドクターが、これはかなり進行していますね、とぼくに告げる。夢のような幻のような刹那の絶望感。

だが。

自分は命拾いした。
脳内身体内のテンションは一気にゼロに落ちたが、自分は顔色一つ変えずに結果を聞いたと思う。徹夜明けの状態と言うのは、まるで人形のようになっていて感情が出にくいが、一旦出てしまうと極端に出てしまう。しかし前者で良かった。
そうして午後からの癌センターは、悪性ではなかった腫瘍の切除の為の打ち合わせに行く用事になった。

一旦自宅へ戻り、暖かい饂飩を食べて茫然となった。
癌センターは車で15分もかからないだろう。1時間ほど眠れるが横になってもちっとも眠れやしなかった。

癌で闘病中の旧友がいる。
昔のバンド仲間で、病に倒れるまでドラムを叩き続けていた男だ。いや、倒れてもなお。
しかし入院中はさぞや音楽に不自由するのではないかと思い、彼の好きな昔のロックやなんかを、せっせとmp3に変換してはSDカードに詰め込んでいた。
あの辛い10日間、それがあろうことか自分の励みになっていた。

しかし改めて思うのは60年代から70年代のロックの独創的なことだ。色々聴き直してみると凄くわかる。以降の音楽はそれの焼き直しに過ぎないことが良く解る。
先駆者というのはやはり凄い。中学生の頃に受けた衝撃はいまもなお残っている。
それで思うのは、やはりロックはもう死んでしまったのだろうか、と云うことだ。
安保関連法案への抵抗の場面にちっともロックが出てこないのは自分にとっては解せないことなんだ。デモはあってもそこにちっともロックが顔を見せない。
昔の安保反対集会は反体制の音楽であったロックミュージックと密接に結びついていたように思う。

餓鬼の頃に観た日比谷野音の頭脳警察のステージは凄かったぜ。

抵抗の拠点として音楽が、いや、のみならずアートというものが生きていた時代があった、確かに。
先の赤瀬川原平の回顧展を思い出す。特に千葉美術館のは、そう云う時代の遺骸を直に確認出来る最後のチャンスだったように思う。

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ただ、この「抵抗」って云うのは、なにも政治的なことに限ったわけではない。それは単なる一部分。
政治、体制だったり、親とか学校とか教育、邪気や無邪気、本来在るもの、生まれつき自身に備わっていたもの。存在感と不在感。
「抵抗」って云うのはひとの生き方の根幹、と思う。
「抵抗」がなければひとは成長できないし、自分自身のことで言えば、その抵抗の拠点としてロックミュージックがあったんだと思うし、まだそれは続いている。

けど。
もう反体制の音楽は死んでしまった。そういうことなのだろうと思う。
似ている。やっぱりあの時代に。
フォークミュージックというものは、民衆の音楽だ。本来は。この国にも良質のフォークミュージックというものがあった。
60年安保の時代に。産まれるべくして産まれた運命の子供たちだったと思う。
自分は小学生の頃なんだけれど、通っていた絵画教室でその匂いを嗅いでいた。美術大学の学生の発散する時代の匂いと云うか。

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そして時代は体制に挫折した。フォークミュージックは死に、アンリアルな恋愛を歌うニューミュージックが世を繋いでいった。
そのアンリアルさは、そのあり得なさ故に惨めで貧乏な時代の憧れに転化されていった。
日本の米国化に拍車がかかり、自分も見事に流されて、そのことに浮かれていた。

そういうことが今また、繰り返されているのかも知れない。

演奏や作曲、アレンジの技術はこのところの我が国のバンドには目を見張る思いがする。それは確かなのだが、自分の感じ続けているロックの核の部分がすっぽりと無い。無い、のだ。
デモに参加する若者も、カラオケに行けばこういうバンドの曲を歌うのだろうと思う。デモに行った感覚とそれらは混じり合って次の時代に連なってゆく。
そうなったら良いなと思う。
強行採決への怒りは鎮まりようもなく、自分もそれは彼らと一緒だから。

時代が悪くなればなるほど、ホンモノの芸術は息を吹き返す。その輝きを増してゆくものだ。
内圧は高まり、いずれ爆発的に生まれいずるものたち。
その為の土壌を豊かに、せめて少しでも豊かにすることくらいしか出来ない。しかしそのようなことを長きにわたって怠って来た。

そのツケはきちんと払ってから死にたいんです。
自分の人生の黄昏時にはまだ少し時間があるしな。

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本当の命拾いではなかったけれど、そんなことを考える日々の明け暮れが戻って来た、待合室で。

音楽が、いやアートが、いまモノ言わねばならない今、今なのにな。
出てこいよ。

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