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2015年7月

2015年7月18日 (土)

Easyrider物語 #11 / 大阪まで5時間、饂飩なんて2回も食べた。あと栗の入った中華餡饅とか。

あぁ、くそぅ。自分は思わず舌打ちをしてしまった。
音速のハルコマでのライブ終えて3日振りに帰宅してみたら、我が家の玄関先にロック3点セットが帰ってきているじゃないか!

もう暫くは、いやいや、半永久的にけんに預かって貰うつもりでいた3点セット。
ベースギターとタイトなジーンズ、エンジニアブーツ。

しかしこれは何か比喩的に思われるかもしれない。つまり、ロックの気持ちは、魂は、もうけんに預けてしまったのだ、俺は。みたいな。
でもそれは全然違う。
6月27日、大阪でEasyriderのライブ終えて、打ち上げにも参加せず、翌朝は関空から東京。夕方には駒込で音速のライブがあるので、必要最低限の楽器バッグ持って。
だからロック3点セットなどはもうけんの車のトランクにぶち込んで「いつか取りに行くから~」って感じで。

なのに。

いや、ところで。
あろうことかバンドが成長している。

Erosaka5
まるでおまけみたいにやった大阪でのライブ。サウンドシステムの事故が前夜起こり、復旧が完全ではないらしい状態でのステージ。
モニタースピーカーからドラムの音が殆ど聴こえず、自分の立ち位置では無茶苦茶なバランスのバンド音と背後のベースアンプから
のデカくて生々しい音ばかりに翻弄されたが、明実が凄いリラックスしているのが伝わって来るので、これは多分大丈夫なのだろうと思って演奏していた。
お客の盛り上がりも凄かった。これが西の空気なんだよな。
そんな状態でもオペレーターが良いのか、客席にはかなり良い音が提供されていたのが昨夜判明。動画で確認出来た。

で、あろうことかバンドが成長しているのも判明。
全員が確信に満ちている。
何だか自分は満足して、ではやろう思えば、いつでもこういう音が出せるのだな、と思い独りほくそ笑んだのだった。

Erosaka4

3月8日のぎりぎりと張りつめた感覚ではなく、適度にルーズなワルいロケンロールバンドだった。

とまれ。
大阪。

これが決まってから、もうずうっと楽しみにしていた大阪。
色々あって。

大阪へは車で行きました。けんの車。イイ車。
ギターの竜は夜行バスで当日入りなので、メンバー3人とすでにマネージャー化している我が家人で。
天気は悪いし、時折土砂降り。
だが時間はたっぷりあるし、すぐにサービスエリア寄って、そのたび色々食べたり飲んだりして、こういうのがまた楽しい。
浜松の「森」というSAにも寄って貰った。
以前音速の浜松ライブの時に知ってから大のお気に入り。
地味で静か。建物が木造で木の香り。特に良いのが清々しくきれいなトイレット空間。ヒノキの香り。特に便意はなかろうと、ゆっくり座って楽しめ。
静岡の美味しいお茶もタダで飲ませてくれる。

最近はマナーの悪い中華の観光客が給茶器なんかを占領して、大勢でペットボトルや水筒一杯に汲んでいて、近づくことも出来ないという。あぁ、嫌だな思っていたけれど、何処のSAでもそんなことはなくて、見たらちゃんと漢字の張り紙がしてあって、つまりマナーが悪いわけではなくて「普通」の感覚の違いだけのこと。

そう言えば特に違いを感じるのが「商う」の感覚だと思う。旅していると結局これに触れる機会が一番多いしね。彼らも、自分たちも。

何か堂々と商っている。堂々と商われている、消費している。凄く対等な感じが強いのね、あちらさんは。我が国ではどっちかが威張っていたり、おどおどしていたり、場合によっては。はは。
彼の国では店員が土下座したり、嫌なら帰れ的な威張りん坊飲食店は存在しないのだろうね。

茶色がかったグレイの景色ばかりが雨に流れてって、車のHDからはライ.クーダ―のBop Till You Drop。
これが旅の気分。
昔はこのバンドで随分旅をした。昔日の筈だったのがまたこうして旅している。

和歌山、京都を廻り込んで3時過ぎに雨上がりの大阪に入る。
天満駅で降ろして貰って、自分と家人は帰国中のバリ在住の友人一家と合流した。
去年の渡バリ時に此処の子供らとすっかり仲良くなっていたので、こんなに早くまた会えるのが嬉しかった。
此処の実家のひとたちとも自分らは懇意にしているので、すっかり歓待して頂き、記憶も怪しくなって、もう翌朝。
大きな部屋に広げた布団のうえで子供らとごろごろぐたぐたを楽しんで、それでも9時過ぎには電車で神戸へ。

元町「BarSambal」
Ubud村で良き呑み友達だったTakaちゃんと旦那のjokoがオープンさせたバリ料理店、いや、バーと言った方が感じかな。本当は夜に行って、こころゆくまで呑みたかったが、今日はランチ。
大阪駅から40分で着いちゃったのでまだ早い。三宮から南京町を散歩して。

Nan2
横浜中華街のメイン通りではない脇道が集まったような町は小振り。だけど、よりディープな匂いだ。道にせり出して商っている食べ物も豊富で、物価も半分くらいな感じ。
ランチが待っているので北京ダックバーガーだけで我慢したけれど、1000円あれば道のものだけでお腹一杯食べられそう。
マレィ半島の何処にもあるKotaCina(チャイナタウン)みたいで、夕暮れの程良い時間に歩きたかった。

Nan1

Nan3
再会と本格バリ料理とビール。
アパレルやっていたTakaちゃん、流石なセンス。ひと昔前のバリ料理店の、出来るだけバリっぽくしようとして、何かカオス状態になっちゃってるのとは全然違う。すっきりしててイイ、此処。

San1


San2
そして今晩は大阪、泉佐野「音楽倉庫」
ロックの絆たちの呼んでくれた場。
彼らのバンドや彼らの友人たちのバンド、そのお客さんたち。

ほんまおおきに、ありがとうな、と言ってみた。いや、さっきだけど。

共同風呂、トイレ、清潔な和室(6畳くらい)で3800円。という駅近くの旅館を自分で予約しておいた。
門限11時というのも翌朝考えれば丁度良い。
もう1000円足せば普通のビジネスホテルもある。けど自分は此処がすっかり気に入ってしまった。
「ビジネス旅館美松荘」
もともとあった美松食堂(今はやっていません)を増築に増築を重ねて迷路状になっている建物。長逗留、しかも外国人が多そうな雰囲気で、あちこちに洗濯機やら共同冷蔵庫やレンジや湯沸かしポットのコーナーがある。
こういうところは共同風呂といっても、一回一組、鍵かけて入るのが普通なので、気遣いもない。昔風の深くて広いタイルの浴槽で気持ち良い。ビジネスホテルの風呂は棺桶より狭いもんね。
以前奈良でもこういう処に泊まったけれど、やはり凄く良かったし、いつまでも憶えてる。

昔、若くて貧乏だった頃、よく海外を旅していた。だから本当の、ホンモノの貧乏ではなかったのだけれど、旅にお金をかけられなかった頃、と云うのが正しいね。
そう云う頃はこういうところばかり泊まりあるいていた。
プライヴェートバス、トイレ、エアコン付きなんていうのは体調悪かったり、凄い疲れてる時とかだけで。
共同シャワーで錆び臭い水浴びて、ベッドに転がって天井で緩慢に回るプロペラー眺めてる。
なんと幸せな旅だったことか。
食べ残したお菓子はおろか、腕時計の革のバンドまでもが夜中にナニモノかに喰い荒らされ、夜半に酔っぱらってインした西洋人カップルの●●●の声聴きながら眠りに落ちることなんかも。

その当時は勿論それが幸せな旅だなんて思いもせずに、何か一生懸命に旅していたんだろう。
旅は熟すのに時間がかかる。
だから、ひとつの或る旅が終わって熟すまでに何十年とかかったりもする。
人生はそのすべてが旅、という言い方もあるようで、そんな気がしないでもないのだけれど、そのことと今言っていることはまた別の話だ。

泉佐野から関空までは僅か2駅10分の距離。
そう言えば大阪のロックの絆たちは知り合った頃、俺ら関空造ったって言ってた。つまりはへヴィーメタルな肉体労働のひと達だったのね。
そういう関西空港から一気に帰京。

6月28日(日)@駒込「ハルコマ」音速珈琲廊

久し振りの音速のライブ。
今日はperのあんりちゃん加えての3人編成。

此処は友人の経営するお店で、一度行来たいなとおもっていたらこういうカタチで実現した。
懐かしいバリ時代の友人も聴きに来てくれる筈。
今回の旅は此処までが旅なので、そのすべてが友人に会うための旅だったみたいだ。

音速の音楽はその時々の気持ち気分が大部分のファクターを占めて流れてゆくので、、自分の音は短くて濃厚な旅のクライマックスみたいな感じになっていたと思う。

Haru4
演奏を終えた僕は長い旅を終えた旅人みたいな貌になっていただろうか、、
なんてことなんか思い出しながらこれを記していたらば、、また舌打ちだ。一度じゃ済みそうにない、何度も何度も。

とうとう強行採決しやがった。あの異常な男が。
そして、民主主義は何処に行った!民主主義の崩壊だ!と世間では声が上がっていると云う。

、、しかし。

選挙って民主主義の根幹ともいえるシステムでしょ。そこで自公に投票したのは誰?現内閣を支持してきたのは誰よ?
で、その結果を鑑が見られて「あぁ、やっぱり馬鹿なのね、これならやりたい放題できるよね」と大きくなめられた。
挙句。
「支持率は下がるかもしんないけど、いずれ時間がたてば国民は忘れてしまうよ」と言われてしまう、、

もう舌が痛くなってきたので、自分はもう舌打ちを止めた。
舌本来の用途としては品格が劣るし、それが原因で舌癌になったら嫌だし。

国民性を上げる。

これしかもう道はないのだと思う。

Erosaka3

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2015年7月10日 (金)

ときどきトランス日記 No.70 / いつか福生で。

中学生のロック小僧には良く分からなかったんだ。B.B。
都立高校に合格したご褒美に買って貰ったエレキギター。欲しくて欲しくて必死に勉強したんだぜ。

Tv
フェルナンデス社製のGibsonTVモデル。そしたらB.Bのコンサートのチケットが付いて来た。
だからそれは春のことだったんだろうと思う。中野サンプラザだったのか、新宿厚生年金ホールだったのか、でもそのどちらかだったと思う。
ブルースと云うと、白人の弾きまくるハードなやつが格好良いと思っていた。とにかくラウドなやつね。でもB.Bのは違ってた。ちょっとしか弾かない。「あれ?」っと思った。
でもこっちがホンモノなのかな?とも思った。でもやっぱり頭の中は?で一杯になって帰って来たんだと思う。

いまならわかる。チョークしたハイトーンのヴィブラートの凄み。

そういうB.B.Kingが逝ってしまったんだけど、その少し前にもうひとり、、

あと一歩で天才と言えるギターを弾いていた奴が死んだ。
自殺だと云う。
最後に彼に会ってから25年くらいは経っていると思う。それが下北沢の友人の住みかだったのか、西荻窪のライブハウスだったのか、、はっきりとは覚えていない。でもそのどちらか。

彼に初めて会ったのは福生だった。
自分の所属するバンドのホームが福生で、同じく福生をホームとする別のバンドでギターを弾いていた。
所謂米軍ハウスと呼ばれていた互いのバンドのリハーサルスタジオは砂利道を挟んではす向かいに建っていた。

もう一度言うが、あと一歩で天才と言えるギターを弾いていた。その一歩が遥かなストライドだとしても、だ。
勿論自分はとても若く、彼もとてもとても若かった。
新潟から来たばかりだと言った、純情なロック青年。
でも年を経るごとに、彼はどんどん気難しくなっていった、、

今になって思うと、それはドラッグによる全能感が原因だったのではないかと思う。
ドラッグの怖いところは、その全能感=自我の肥大にある。
ただ、才能あるものは、その全能感に乗じてとてつもない仕事をして来ているのは確か。音楽、描くことやその行動に至る道のりや道筋。60年代から今日まで。ドラッグカルチャ―の果たしてきた役割はあまりにも大きい。
しかし。
才能なきものは、全能感=自我の肥大の海に溺れてゆき、藻屑となって消える。

ドラッグは生き方の選択、ライフスタイルのひとつである、と言うのはこのことなのだ。
考える必要なしに、直感で正解に辿り着くからね。1秒もかからずに。その正解が本当に正解なのかどうかも含めての、あとはその人の才能次第。
けれど醒めてしまえばそれまでのこと。しっかりキープしたはずの正解はもう何処にも見当たらず、あれほど強かった全能感はまるで夢のようだ。
あの素晴らしかった感覚はもう何処にも見当たらず、そうして惨めな今日がやって来た。
あるかないかの小さな才能はちぢこまり、風の中で吹き飛ばされそうだ、、それがドラッグと云うものの正体だ。
才能を試され、必ず敗北するもの。
死んでしまう前に、若しくは自ら死を選択する前に。
帰還出来なかったアーティストは大勢いる。

ただね、こういったものがアートに結びついたから起こる悲劇だったのだと思う。
こういうものは60年代以前の遥か昔から存在していたはずで、それはもっと土俗的なカルチャーだったと思える。宗教として開花する前夜、と云うか。
でもそれを60年代に世界中に散ったヒッピーが世界中で発見してしまった。すぐにその感覚がアートに直結してしまった、、そして凄い事がたくさん起こった。
ドラッグは戦争にも多くかかわりを持っているし、そういう暗黒面も深い。我が国で云えば覚醒剤。

いや、彼がドラッグを使用していたのかは、ぼくは知りません。
ただ、福生の連想からこういうことを考えているだけです。
60年代、70年代の東京のドラッグカルチャーのコアだった町。ティーンエイジャーだった自分はそういうこともロックもごちゃ混ぜに捉えていて、そして憧れていた町。
でも80年代になってそこで過ごしてみると、もうそういう感じは見当たらず、漂白されてて何だかさらさらした空気だけがあったように思う。
それでもね、時々は、本当に時々には、ふいと強い残り香を嗅ぐ時もあった。

Su1

Nicora’sのピッツァ、ミリタリー.サ―プラスのナルニア、古着のKeyStation、チキンシャック、エレクトリック.ウズ、マジカルパワー.マコ、、

あぁ、ドラッグが解禁されたなら、例えそれが大麻だったとしても、もう嫌だなと思う。それによって自我が肥大した連中が大勢うろつくことになるだろうからな、我が物顔で。それは考えるに憂鬱なことだ。

ところで、90年代になってからか、もう少し後かに、彼のバンドは来日したジュリアン.コープの前座を務めたらしいと風の噂で聞いた。ジュリアン.コープは80年代のネオサイケの波に乗って出てきたミュージシャンだが、あまり売れなかったと記憶している。でも、ほう、それは凄いなと思っていた。
あぁ、もうひとつ思い出したので記録しておきたい。ジュリアン.コープが80年代に来日した時、自分は日比谷野音で観ている。その時の前座は大江慎也を欠いたあとのルースターズだった。

Su

彼との思い出、、
でもそれほどはないんだ。
バンドのリハーサルスタジオははす向かいだったけれど、セッションして遊んだのは2~3回に過ぎない。
でも彼のバンドとは良く対バンでライブをやった。
福生のライブハウス「チキンシャック」この店はまだ存続していると云う。

本当に昔々の、自分がロックだった頃のお話だ。
こんなことを書く機会なんて、こんなことでもなければね、なかった。

自殺。
苦しんで苦しんでの果て、での選択。
まだ音楽をやっていたはずなんだ。何故ならば、先のEasyriderのReunionLiveに呼んだらば、生憎バンドのツアーか何かに重なっていて来れない、と連絡があったそうだから。
苦しみながら音楽をやっていたのかも知れない、と感じる。昔の彼を少しだけ知っているからそう思う。

横田基地からほど近い斎場で、さる17日に彼を送る会があり、自分は出席出来なかったのだけれど、二百数十名の参列があったそうだ。

Sora01

とまれ。
合掌。2015年6月に。

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