2022年11月 9日 (水)

ときどきトランス日記 No.111 / 仏教アンビエントに気付く。福井県永平寺~麻布本光寺。

仏教と云うのはとてつもなく凄いものなんだと、深く感じ入ってしまった。
こころが震える、いまも。

自分はもとより神道寄りの人間だったのだ、どちらかと言えば。
まぁ、感じるものの具合と云うか、信仰心的な傾向と云うか、アニミズム的な癖なのかも知れぬが。
だからそれはそれで良くて、変りはせぬのだろうと思う。
そう云うこととは関わりなく、自分は仏教と云うものに強く打たれてしまったのだ。

それはだが、その教義にではない。
感覚でしか捉えようのないもの、それは美であったり、気のちからのようなものであったりする。

経文は知らぬ国の言葉と一緒だし、ましてやその意味も解らない。
だが通夜や葬儀の席で、何度も聴いては来ている、子供の頃からね。
特に音楽を演るようになってからは、おりんの音や木魚とともに進む読経の声、リズムは心地良く、
何か良いなと思っていた。
平穏たる調べ、のように感じていた。

だが。
そんなものではなかったのだ。
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10月27日(木) 早朝4時 永平寺。
幾重にも入り組んだ巨大な寺院の最深部、法堂(はっとう)にて、朝課の場に入れて頂く。
常時100人ほどいる修行僧の方々の朝のおつとめの場だ。

前夜泊まったのは、門前にある宿坊を模した宿で、朝課に参加したいお客を案内してもらえる。
外へ出ると、まだ夜の匂いが濃く強く残った黎明の刻の少し前。
弱々しく街燈が、おのれの周りの闇を薄めている。かなり寒い。

皆黙りこくって上ってゆく。砂利を踏みしめながら山門を目指し、羅漢堂を潜る。
靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。
僅かな灯りの暗い堂内を最奥部目指して時に階段を、時に傾斜の廊下を上り下りして静かに進む。
随分歩いたような気もする。夢の中の行軍、永遠の歩行。
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法堂内はスリッパも脱がなくてはならず、手足がかじかむほどの冷たい空気に満ちている。
広い広い座敷、遥かに高い天井。法話があり、その後座禅を組む。
この辺で自分は時間の感覚を失くしてしまう。もうなるようにしかならないのだなと感じる。
座禅を終え暫く放心していると、真っ黒な僧衣の修行僧たちがぞくぞくと入って来られる。
最前には巨大な仏具が居並び、通路を挟み左右に100人の修行僧が座す。
僧衣の擦れる音、畳の擦れる音が静かに満ちてゆく。

これほどの大きさのおりんは初めて見るものだ。
その倍音の響きの果てしなさ、瞬時に自分の全部を持って行かれてしまうほどの震え。空気の震え。
果てしない倍音の震え。100人の読経が押し寄せる。
圧巻だ。
その轟轟たる大海を割って、焼香のため我々は静かに中央の通路を順番に進んでゆく。すでに現世感は薄く、
いま自分は別次元との狭間に居るのだと思った。

だが。
そんなものではなかったのだ。

外はいつの間にか朝を迎えており、冷え切った身体に朝食の味噌汁がことの他滋味深かった。
11時には今回の目的、義父の納骨のためもう一度堂内へ入る。
少し眠ったので、さっきの朝課が昨日の夢のような気がする。まだ時間の感覚が帰ってこない。

永平寺は大きい。
靴を脱ぎ、清潔な木の廊下を往く。
坂の回廊、斜めに切った木枠のガラス窓に穏やかな陽が射している。
あんなに冷たかった朝の空気中の水分が、陽で温まって屈折している。
そういう引き窓がずうっと上の方まで続いている。
我々は納骨の法要の行われる祠堂殿、舎利殿を目指しゆっくりと上ってゆく。
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巨大なおりんをはじめ、鳴りものが各所に設置されている。
朝課のこともあり、これにはやはりわくわくしてしまう。
これはひとつの舞台と考えて良いと思う。
自分は下手側の席に座っている。
舞台中央の左右に三人づつの若い僧が対座しており、少し離れて年配の高僧らしき人が読経のリードを取るのだと
思われるポジショニングにいる。
鳴りものの各担当者もそれぞれスタンばっている。

おりんの一閃、長い長い倍音の響きの裡、巨大な木魚の等しいリズムを更に等分した大太鼓のリズム。
この太鼓の金属ではない低音の圧が凄い来る。
8分音符の永遠たる連なり、な訳だのに身体が自然と横に揺れてしまう。
これって間違いなくグルーヴ感だと思った。
おりんはひとつではなく、3種類の大きさのものが鳴っている。妙鉢と呼ばれる西洋のシンバルそっくなものも
時折入って来る。
だがどれもが裏打ちをしているわけではない。誰もが表で粛々と進んでいる。
しかしグルーヴ感ってやつはこの裏打ちから発生するものなのだ。
不思議不思議のこれっていったい何だろうと思う。

それはね、サイドの対座した3人づつの僧にあったのね。
リードの読経に被せてユニゾンで合わせているのが基本なのだけれど、この2つのユニットが絶妙なことをしてる。
片側3人が時折、経文の最初の2小節分くらいを読まないのね、そうするとこちらはステレオで聴いているわけで、
片チャンネルの音がふいに消える、その後また始まる訳なんだが、それを左右で規則的にやっている。
これが凄い効果を生んでいる。
バリ島の伝統芸能ジェゴッグのムバランみたいだ。狂騒と表現しても良いと思う。


そうしておりんの響きが凄い。永遠かと思ってしまうほどの響きがあちらこちらで発生している。
その渦に捲かれて自分は何処かへ沈んでゆく。虫ほどの息で。
リズムは性急に、狂おしく、早くなり、絶頂を迎えた読経は刹那止まる。

無と云う音を作り出すために、その刹那、おりんを手ですっとミュートする。
そうして次の楽章が始まるがごとき、また静かに展開してゆく。

DNAに直接働きかけて来る。そう感じた。
我が国はこう云うものに護られているのだな、と感じる。
仏教的なアンビエント。
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思えば、昨日の朝から今日の朝まで、そうして今のこの刻へと、随分と長い時を経てきたような感覚が残っている。
僅か一泊の旅だのに、長い長い距離を歩いてきたような気がする。
昨朝自分は羽田空港の、ビールだのウヰスキーだのをタダで飲ませてくれる部屋に入れて貰い、
朝の7時だというのに酔っ払っていた、夜は福井の美味しい地酒を精進料理でたくさん呑んだ。
飛行機に乗ったり、車に乗ったり、蕎麦を食べたりもした。景色も楽しんだ。
でもそういうのがみんな、凄く昔のことみたいに思える。
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濃密な仏教時間の裡ではね、、そう思えば矢張りそれはそうなのだ、と思うばかりだ。
法要を終え、外の世界に立ち戻ると、ぽんと気圧が身体から抜けて、皆お腹がペコペコだった。
これから福井名物のソースカツ丼を食べに行くんだ。
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11月2日(水)
自分のような者でも丸の内に用事が出来ることがあった。
有楽町で降りて、丸の内のSビルまで歩いて15分くらい。
用事は10分程で済んでしまい、行きは用事のある人間だからまぁ良いのだが、もう何も用事のない
自分は外によろよろまろび出て、はたと気付く。
辺りはビジネススーツにネクタイの人ばかり。
自分はマオジャケットにご丁寧にスタンドカラーのシャツを着ていると云うアウェイ感半端なく、、

でもね手ぶらで帰るのは何か口惜しい。
暫し考え、これは麻布だろうと思った。
このところの曽祖父を筆頭に据えた梅田家のルーツ確認の旅の最後の残りひとつが麻布にある。
去年の父の逝去の折、はっきりとその所在を知った場所。
12歳で仏門に入った曽祖父の2番目の修業の寺で、当時30代。
この時代に曾祖母となるつるさんと出会い結婚している。麻布のシティガール。
自分のシティボーイ体質はこの血だったのかと思う。知らんけど。

東京メトロ、麻布十番駅。
幹線道路沿いに神社。少し歩いて左に折れるとそこが暗闇坂。さっきまでの丸の内の馴染まぬ
空気とは全然違う。
下って上ってだらだらの長い坂道で少々息が切れるね、しかしこれは。
暗闇坂に三つの坂が複雑に交差してるこの町の臍で。さてどっちかな。
で、狸坂を選んで上って下るとありました。
法華宗総本山、三条本成寺の末寺である、麻布本光寺。
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空気が濃い。麻布の住宅街はひっそり。その裡のお寺は更にひっそり閑。
都会の底みたいなすり鉢状の町だからね。
狭い境内の先は意外に広い墓所が続いており、その片側は崖の下、上を見上げると高校のグラウンドの
フェンスばかりが見える。
体育の授業でサッカーをしているらしい弾む声が時折落ちてくるばかりなり。
反対側は住宅地が迫り、生活感がこっちにもはみ出して来ている。
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これでこの旅は終わりましたよと、長岡本妙寺のお墓に報告テレパスを入れて。
小さな石くれを拾ってポケットにしまった。
実家のすぐ裏を流れるささやかな小川の水底にある、密かなコレクションに加えるのだ。
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2022年10月18日 (火)

ときどきトランス日記 No.110 / 自分にとっては特別なんだけど、平たく言っちゃうと神社仏閣巡りなのか。

去年の父母の逝去あと、保険やら銀行の事やら、更に相続の手続きと云う最大の難関
をどうやら乗り切ったようなのだけれど、そのどれもに際して、徹底的に梅田家の
来歴、履歴を調べねば事は運ばず、これもひとつ骨の折れる作業だった。
しかし、これによって今まで知らなかった事柄が色々とわかった。

曽祖父の父親、つまり自分のひいひいお爺さん、これは高祖父と言うそうで、そこまでは
何とか辿ることが出来た。
それ以前の記録は戦災で焼失しており、もう知るすべもない。

旅って云うのは、まぁ体力もそうだけれど、気持ちだと思うのね、旅する気持ち。
これが年齢とともに衰える、きっと。何か僅かな自覚もある、やばい。
なのでこれは行けるうちに実際に辿ってみようではないかと思い立つ。急ごうと思う。

9月28日(水)新宿バスタ~新潟県、長岡

思い立ったのならば、もう出立だ。
高速バスって初めてだ。
安いし楽。列車で安く行こうとすれば、煩雑な乗り換えもあり時間もかかる。
そう云うのが好きな人もいる。自分もバスで直行では少し味気ないかなと、ちらと思ったのだけれど、
列車は旅ナカでたくさん乗れるし、ここは楽をしようと思った。

「オテル.ド.テルミナ」は何処ざんしょ、、などといい加減なことを呟きつつの長岡駅前。
ホントは長岡ターミナルホテル。
長岡駅にくっつくように建っている古いビジネスホテル。
自分は昭和に建立されたであろう、こう云う古い安ホテルが存外に好きだ。
独り旅はこういうところで過ごしたいのだ。
最新鋭のビジネスホテルは、ただ超コンパクトな閉じた箱。なので楽しくない。
けれど古いやつって云うのは、空間が緩くて閉塞感がないのね。窓だって開閉出来る。

さて、陽が落ちれば酒であるが、今回の訪問先どこでも、自分好みの店は皆無であることを
すでにリサーチしてある。
好きなタイプの店は東京とか大阪にしかない、きっと。大都市の札幌でさえそうだったものな。
地方も都市もない、ないまぜの品の悪い一角にきっとある、野蛮でこころ休まるお店。

けれど旅先の安ホテルの部屋で独り呑むのも悪くはない。
近くの大きなスーパーで色々買い込んだ。

9月29日(木)新潟県、三条、本成寺。

長岡から上越線で20分。
田舎の小さな駅、ではなくて、何処にもありそうな普通の小さな駅。
駅舎を背にして一本道。途中から参道っぽくなるけれど、特に店がある訳でもなく、の住宅街。

自分の曽祖父、幼名梅田時次郎は此処三条に生まれ、12歳で仏門に入る。
振り出しは法華宗の総本山、本成寺の末寺、寿妙院。
本成寺は大きく広く立派な寺だった。流石総本山、あの駅がこれに繋がるのが何だか不思議なくらい。
寺の周りに末寺の○○院だの〇✖院だのがたくさんあって、そのひとつが寿妙院。
見つけるのに少し苦労をしたけれど、あったあった。
ひと際小さく地味な佇まい、でも好ましい佇まい。
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平日の真昼は上天気、かなり暑い日だ。
しんとしたひと気のない聖域、空は蒼。鐘楼の陽陰に座り込んで味わう呼気。

いや、檀家の納骨らしきものがあるのだろう、黒い服装のひとたちの列が何処かへ向かってゆく。
独りはしゃぐ小さな子供の声の他は、とても静かな、現実感のないような葬列が自分の目の端を過ぎて行き、
それ切りになった。

時次郎はこの後、更なる修業のため末寺である東京麻布の本光寺へ。
この時代に、のちの曾祖母つると出会う。
時次郎は梅田教巌と改名する。

9月30日(金)新潟県、長岡、本妙寺。

麻布での修業を終え、梅田教巌は梅田日進と成り、ここ本妙寺の住職となる。
この寺が曽祖父の最期の地。

長岡駅から信濃川へ向かってまっすぐに30分ばかりの道のり。
末寺とは言え、大きなお寺だ。
父と母は随分昔にこの寺を訪れており、写真が少し残っている。
また、姉も高校生の頃に訪れており、遅ればせの自分が今日やっと。
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この日もとても良い天気。
真昼の寺は矢張りしんとしている。
この寺に曽祖父のお墓がある。
境内の大きな樹のある中央の一角に本妙寺歴代住職の墓碑が集合している。
ただね、苔むしていたりしていて、刻印の読み取れるものは少ない。
まぁ、このなかのどれか、と思う他はない。
いちばん大きくて、綺麗に整備されて真ん中におわすのが日蓮聖人のだ。
この聖域中の聖域であろうこの一角の入り口に、左右2本の柱が建っており、
その右の柱に檀家一同の寄贈らしい刻印がある。
そこに日進の文字を見つけた。
存外人気のあった住職だったのかも知れない。
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しかし、これですっかり役目を終えたような気分になって、計画していた信濃川をたっぷり
味わうことは完全に忘れて町へ戻ってしまった。
あ、信濃川、、と、それを思い出したのは夕のお酒と食を買いに行ったとき。
しかし自分は高速バスの窓外で見ることは見ている。バスが長岡市内入る直前に川を渡る時に。
信濃川の表示もあり、でもその時は、お、信濃川、と思ったに過ぎない。
それでひとつ昔の河の記憶が蘇った。

自分はマレィ半島が好きで幾度となく訪れているのだが、数年前のその旅で、この地に嵌まるきっかけとなった、
大正~昭和の詩人金子光晴の、マレィ最愛の地、バトゥ.パハと云う小さな町をとうとう訪れた。
光晴の書に幾度となく出て来るセンブロン河と、その川面へとしなだれるカユ.アピアピの樹をどうしても見たくて。
しかし、現地はざんざんの雨。濡れようが構わぬと思ったが地図を忘れて来ているときた。
前も横も分からぬような降りだ。
自分は飛び込んだ安食堂から一歩も動けず、帰りのバスに乗ったのだ。
でも一瞬だけ窓外にセンブロン河を認めた、あれだ、そう思った。雨の叩く茶色の水面へとしなだれる樹も見えた。
バスが橋を渡るその刹那にそれを見た。
そうして、あのとき食べた素朴なクレイポットライス、旨かったな、とそれ切りの記憶しかない。

長岡ではもうひとつ、マレィの記憶に立ち戻る一瞬があった。
本妙寺~長岡駅を繋ぐ道は途中までは広い幹線道路の如きでなかなかに味気ない。
なので帰路は、その道路に差し掛かる辺りで道を一本外してみた。
そうしたら矢張り見つけた。
新幹線の停車駅景気の頃は大いに栄えていたのだろう、でももう寂れてしまった繁華街、歓楽街。
この辺りは殿町と云うらしい。
夜の帳の時分になっても、きっとその扉はもう開くことはないんだろな、そういうお店が並んでる。
ただ、今風のキャバクラとかフィリピンパブなんかは営業しているようだ。
しかし自分のようなものが夜この辺をうろうろしていれば、ロクな目に合わないだろうことは
分かるので、こんなお昼の時分に夜の侘しい情景を想像するだけ。

ところでこの辺り一帯の作りが面白い。
全部のお店たちが軒で繋がっていてぐるりと回廊のようになっている。
酔客たちがこの回廊をぐるぐると巡る様を幻視するとなかなか楽しい。
この作りはマレィにあるカキ.リマと呼ばれるものにまるでそっくり。
大きな町ならば必ずある。
マレィの場合は角に大抵コピティアムと呼ばれる安食堂とカフェーを兼ねたお店がある。
歩道にまでテーブルや椅子がはみ出していて、自分はそういう椅子で甘ったるいテ.タレ(コンデンスミルク紅茶)
やコピ(珈琲)をすすりながら通りを眺めて過ごすのが大好きだった。
光晴の時代ならば、こう云う回廊にアヘン中毒者たちがごろごろ転がっていて、彼らを踏まぬように
煙管を点けるための豆ランプを蹴っ飛ばしたりせぬようにと、苦労をしたそうだ。
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麻布、本光寺は何時でも行けるので、ひとまずのルーツ巡りはこれでお終い。
日進の息子、自分には祖父である梅田芳次郎は仏門へは進まず、北海道大学を経て、医学博士となり、
札幌で祖母幸子と出会う。
ここから梅田家の札幌時代が始まる訳だが、それにはまた違う機会を作ろうと思う。

旧市街と新市街の対比を味わうのは旅の楽しみで、でも地方都市の繁華街は、歩くのは良いけれど
お店に入る気はしない。
今晩も侘しく部屋で独り、酒を呑む。
この侘しさの味わいが好きでね。

そう言えば、三条もそうだったのだけれど、路面とか歩道とか、道沿いの駐車場なんかが結構あちこちで
茶色の鉄錆色に染まっている箇所がある。
これ何でだろうと思う。鉄分の含有量の多い水でも染み出してきてそのまま錆びるのだろうか?
とまれ、これもちょっぴり侘しい景色だなと思う。
Sabi

10月1日(土)群馬県、前橋。

上越線で山を越えて往くと平べったい関東平野だ。
広い景色に分け入って気持ち良く走る。
水上で前橋行きに乗り換え。
終点に近づくにつれ、空いていた車内も帰宅中の高校生やら、地元の人たちで混んできて、
さっきまで我が物顔であちこちうろついていた、無神経、不衛生の塊のような非常にマナーの悪い撮り鉄の
馬鹿者も隅に追いやられて、やれやれと思う。

前橋駅から少し歩いて、中央前橋と云う駅の前のホテルにイン。
今晩は古い古い友だちのバンドのライブがある。前橋がホームのバンド。
自分でも名前を知っている有名なバンドの元メンバーや、シティポップなら一番に名前の挙がりそうな
歌手の元サポートミュージシャンとか、そういう手練れのメンバーたちが、大分の良い歳になり再結成したバンド。
ザ.パルジファル。
CDの出来が素晴らしくて、随分聴き込んでいたので、ワインを飲みながら結構ワクワクしてた。
おぉ、やるなぁ、、アルバム中唯一自分が好きになれなかった曲でスタート。

けれど良い演奏でした。曲間のメンバー各自のだらだらしたお喋りは苦痛でしたが。まぁ、ホームのステージ
だしね、そういうのもアリなのかなと。
その友だちはヴォーカルとギターが担当で,声が凄く良い。
もう一人のギタリストとのコントラストが鮮やかで、これに関してはCDの音源を凌駕しているなと思った。
自分はギターバンドと云うものが好きなのだが、その味わいも濃いライブ感。

9月2日(日)前橋。

件の友だちと一献傾ける予定なのだが、それは夕刻から。
さてでは、初めての町の散策でもしようか、と考えるが、どうも凄く疲れている。
こりゃ駄目だな、全然出掛ける気がしない。
なので約束の時刻まで休息日とする。
陽が落ちてしまえばね、それはそれで楽しく呑めるというもの。今旅初の居酒屋にて過ごす。


9月3日(月)前橋~栃木県桐生~足利。

今晩は足利の予定なのだが、桐生で途中下車の上毛線。
遠くに見えているのは赤城山なのかも知れない。

桐生で降りたのは目的があって、わたらせ渓谷鉄道に乗ってみたかったから。
随分昔にテレビ番組で観たことがあって、多分それがこの線と思う。
その番組はNHKの「関東甲信越小さな旅」だったかも知れない。
自分はこの番組のテーマ曲が好きで、その作曲者は服部克久と思いこんでいたのだが、実は大野雄二で、
これには意外な感じがした。
しかしこころに沁みて来るメロディー、楽器の調べ、たまらない。

迫る緑の双璧を突っ切って走る。
窓外にはみだした肘を緑が打つ。
緑が切れると、眼下に渓谷。その水の色は碧、そこだけがまだ夏の名残り。
新潟の旅は暑かったので、こんな冷たい山風に晒されて、あぁ、秋から冬へと向かう一日目が今日、と思う。
途中に足尾銅山の廃坑があり観光の名所になっているらしく、みなそこで下車。ぼくだけが独り終点の
間藤駅まで。
暖かい缶珈琲を飲んで、折り返しのその電車が帰路。
Sogai

夕方に足利到着。
ここでも古い友人に会う予定がある。
ひとりはとても古く、もうひとりはまあまあ古い。どっちもUbud村で知り合った。
ひとりはインディアン.フルートの名手で、もうひとりは植木屋をやっている。
植木の方の仕事が済むまで少しの散歩をする。
足利はなんだか好きになれそうな佇まいの空気、丁度の逢魔が時っていうのもあってね。
大きなお寺の境内を巡り、裏の水路の向こうに知り合いのカフェがあるというので行ってみた。
「マーラーズ.パーラー」これには矢張り、うおぉ、となる。
頭脳警察の解散後に、すぐにリリースされたパンタのソロアルバム「Panta’x World」のB面
ラスト、凄く印象深い曲のタイトルだからね。
足利で最初に受けた印象がお店になったような素敵な処でした。

その後、昭和の匂いたっぷりの渋い呑み屋に案内して頂く。
ちっとも変わらぬモヒカンの植木屋Fさん、暖かな笛吹きのK君、懐かしくて穏やかなひと時をありがとう
ございました。
Mikawa

10月4日(火)帰京。

もう大分東京に近づいていたので、帰路は楽ちんだった。
東武伊勢崎線と武蔵野線などを乗り継いで、埼玉県を突っ切って我が家へ。

今朝は笛吹きのK君が朝の散歩に誘ってくれた。
近所の織姫神社。この旅は最後まで神域だなぁ。
小高い山上にあるポップな面持ちもあるなかなかの神社だった。狙ってる感じがした。
階段はしかし、かなりの段数で明日が思いやられた。
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2022年7月13日 (水)

ときどきトランス日記 No.109 / 札幌、山の手、浄國寺にて。

6月26日、日曜日。
先の20日に母の一周忌を終え、父のそれはもう少し先だけれど、1年かかって漸く
両親を生まれ育った地に帰すことが出来た。

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札幌、山の手にある浄國寺。
背後に三角山を擁した空の広い、緩い斜面の墓所。ここは好きな場所だなと思う。
けれど自分も姉も、お墓に入ると云う希望がないので、墓石が開くのはこれで最後になるのだろう。

親類縁者はすべて北海道におり、その方々を招いての納骨式、後の会食等、喪主たる自分が
すべて取り仕切り、やはりそれは少しだけ大変だった。
この時期は蝦夷梅雨と云う、北海道だけの短い雨のシーズンに当たり、天気が心配だったけれど
何とか降らずに持ってくれた。

納骨室には祖母の骨だけが入っていた。
30年以上も昔に、僕が独りで東京から運んだものだ。
その上に布の袋に仕舞った両親それぞれの骨をそっと置いた。
骨壺ってすごく重い。ふたり分の運搬は大変だった。家族三人で協力しながら運んだ。
こう云う条件が東京だったら大汗の運びとなったろうが、こっちはこんな日でも爽やかな大気に満ちている。
ちっとも汗をかかずにさらさらとすべてが進行していった。

しかし、納骨の際には遺骨を骨壺から出して、さらしなんかの自然に還る素材の納骨袋に納めるのだけれど、
これを東京でやって来れば、どれだけ楽だったことか、、とつい不遜なこともちらと思う。けど、それは何か
大きな掟に触れるような気もするしね、矢張りイケナイことです。
でも重い骨壺やそれを納める木箱やら、残ったものはお寺の方でお焚き上げと云う供養ののち、処分して
もらえるので、これは凄く有り難いことと思った。

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とまれ、肩の荷が下りる、とは良く言ったもので、肩と気持ちから重たいものが降りてくれて楽にはなった筈なのに、
凄い疲労感が残ってしまった。
思えば夕べ、札幌到着の晩、Ubud在住のち札幌、小樽に帰っている友人たちが宴席を設けてくれて、
歳取ったなぁ、とか、いやすっかり大きくなって、とかいろんな年代が混じりあってて、それはそれは
楽しかったのだけれど、最後の方は疲れてしまってお酒も入らなくなって。

疲れ。
これをずうっと引きずって来ている。何時からだろう、これは。
もうずうっと、まるで身体の一部分のようにいつもある。

6月27日、月曜日。
小樽へショート.トリップ。
越中屋と云う和式旅館に独り。
何てことない裏通り、あちこち剥がれたほったらかしの舗装の裏通り。でも冬になったらば、雪景色の
この通りはさぞや良いことだろうと思う。

1泊の予定なので、散歩の心づもりもあり、13時に入れる此処にしたのだが、畳と座布団折った枕が
気持ち良すぎて夕刻まで昼寝をしてしまった。

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疲れは未だ色濃く残ってはいたが、もうすぐ逢魔が刻になりそうな空気に誘われて、運河の辺りを少し歩く。
観光客のいる辺りを離れてどんどん歩いてゆくと、海に抜けた。風に乗った海猫が浮いたり沈んだりしている。
耳もとで捲く海風の音と、やっぱり夕刻は鳥が啼く、にゃあみゃあにゃあと煩かった。

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ところで、夕べは家族と「札幌ジンギスカン本店」へ。以前行ったときは古いバラックの何か飯場みたいな
建物の2階で、煙もくもく油べたべたな非常に好きな雰囲気だったのだが、今は近くに移転をして少しだけ
小奇麗になっている。
両親ともに札幌出身なので自分も少しはジンギスカンを知っているのだが、此処のは旨い。物凄く旨いのだ、
それはもう大変に旨い。ラム肉は柔らかくってすいすいいくらでも食べられる。
そうして今朝はホテルの朝食。シンガポールのチャンギ空港みたいな天井の高いレストランでガレットの朝食。
SnowPeakの監修しているお店で、なるほどお洒落。
ガレットって初めて食べた。そば粉の薄い生地をカリッと焼いて、それを四角いお皿みたいにしてあって、そこに
色々具材が入ってる。
海のガレットって云うのを頼んだら、そのお皿にイクラとかサーモンが入ってて、真ん中にポーチドエッグが
乗せてあり、バターがふわっと香ったりして凄く美味しかった。

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と、如何ほど左様にだから今、自分はお腹が全然減っていない。
ツーリストのあまり行かない方向へ10分くらい歩くと、お目当ての店が見つかった。
石川源蔵商店。
創業123年の立ち呑み店。
初代は味噌、醤油を作り商っており、2代目から立ち呑みになったそう。で、今は3代目。
道外には滅多に出ない希少な小樽ワインなんかをぺろぺろ飲みながら、主人や常連さんたちとお喋りした。
良い加減なところでお暇して、逢魔が刻の最後の町をよろよろと征く。脱力とともに、疲れが大分抜けて
いることに気づく。
途端に空腹を覚えた自分は傍らのコンビニに飛び込んだ。

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6月28日、火曜日。
列車で札幌へ戻る。
左側に座ったのは、窓外に暫く北の海が見えるから。僅か1時間の行程だけど、公共の乗り物って良いな。
脱力感はまだある。でも脱力ってことは、それまで余計な力が激しく身体、精神にかかっていたってことだ。
思えばこの1年というもの、この状態がずうっと続いていたのかも知れない。

だから自然とリセットに向かう道を探していたのだと思う。
そのためには乗り越えなくてはいけない業も多々あり、この1年はそれをひとつづつ丁寧に片づけてきた。

忘れていたようで、しかし心の隅にいつまでも引っ掛かっていた、バリで録り溜めていたソロ音源。
思い切って、かなりの散財ではあったけれど最新のマスタリング技術を施して、ソロアルバムとして
リリースしたこと。
同時に複雑怪奇なる相続関係の荒海へも乗り出し、ほぼ乗り切ったこと。
帰国後から15年続けた介護職は体力やらこころの限界やらを迎えており、渡道直前に引退をしたこと。
両親を最後まで送ったこと。
大事な友人たちが何人も旅立って行った。そうして自分は生き残った。

ひとまずの幕は下りたのだと思う。
そうして幕間たる今日。
恐らくは自分の最後のステージへ踏み出す直前の今日、いま舞台袖。

ところで札幌にはどうも自分の好みのタイプの呑み屋は僅かしかないように思える。
それでもいくつかピックアップしていて、試してみようと思っていたのだが。
どうやらひとつ目で当たりを引いてしまったようなのだ。

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その名も「第三モッキリセンター」正統90年、とある。
その佇まいですでに確信。
ところでやはり気になるのはモッキリ。
モッキリってなんだー?

静岡方面の言葉で、ムカッとする、イラっとすることを「ヤッキリする」と言います。これは非常にその気分に
マッチしていて、我が家でも愛用している。
そして誰しもが連想するのは矢張り「モッコリ」であろうと思われる。
これが混ざるとモッキリ。な訳はないので調べようここは。

その昔、角打ちのことをこちらではモギリと言っていた。
そっから色々変遷があって、立ち飲みや大衆居酒屋のことをモッキリと言うそうだ。
まぁこれは高齢の方だけらしいのですが。
そしてもう一説は「盛り切り」から来ているとも。
つまりはこれ。

Photo_20220713075704

ホッピーを注文したらば、ホッピー(外)と氷とジョッキが来て、最後にコップに焼酎を
表面張力崩壊寸前まで注いでくれる。
おぉ、盛り切りだ、と感動するが、これをどうやってジョッキへ入れるのか、、
持ちあげれば絶対に零れるし、それはみっともない(北海道ではみったくない、と言います)
暫く考えて、コップに口近づけて、ちゅっ。
しかし生の焼酎なわけで、これがヤバいのね、結構キくの。
大衆居酒屋は安くないと駄目なわけで、このコップ焼酎が200円。焼酎抜きのホッピーセットが275円。
これで2.5杯は行ける。ひとによっては3杯でも。
なので自分はこのセット×2でホッピー5杯。計算したら一杯190円也。

何だかいつの間にか常連さんたちのお喋りに加わっていて、こちらは完全にアウェイなのにね、小樽の時も
そうだったけれど、みんな気さく。
働いているおばちゃんたちもみんな優しかったよ。
串カツ頼んだら、ウスターソースにする?とんかつソースにする?って聞いてくれて感激。

こう云うの味わったことない、東京じゃ。
常連さんたちは牙城を築き、独り呑みさんは独特の構え。

何?では第一、第二の様子が知りたいですと?
ありません、そういうお店は。

*日記に記すことでもないのですが、最後にちょっと宣伝を。
先に書いた、ソロアルバム「音速竹 / SonicBamboo」
送料込み¥2000で発売中です。

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2022年3月18日 (金)

ときどきトランス日記 No.108 / エーテルの満ちる斎場と遠い海の記憶になるもの。

こんな日は。
こんな日には、自分の魂の深部にまで降りてゆく他はないのだ、そう思う。

大事に思っていた友だちを失くした。
気持ちなんて全然片付いてない。
なのに、10日も経たぬうちにもうひとり。
大事な大事な友だちだったんだ。

それを恨むなら天へ。
其処におわすナニモノかへ。
すべての諸行は無常なり、そうなのかも知れない。
だが自分は無常に対する修業が足りない、去年よりあんなに無常を味わって来たのにな。

「ゆうこさん」

2022年 2月28日 逝去。

冬の名残ももう最後だという寒い日に、灰色の厚みの空の日に、かつてゆうこさんだった、
彼女の魂の容れものだった身体に過ぎぬものは、一条の煙になって虚空に吸い込まれてゆきました。
そう云うものでも、ただの容れものにせよ大切に送ってあげるのがこの世の習わしというもの。
それでさよならのすべてが終わる。

スターマンはお空で待っている。
スターマンがあの空の果てで待っている。

いったい何時からゆうこさんと友だちだったのか、きっかけは何だったのか、全然思い出せない。
家人に尋ねてもやはり同じ。

O-LaLaのゆうこさん。
みんながそう呼んでいたと思う。
それは彼女が経営していたブティックの名前。デヴィ.シータ通りの。
自分たちも同じ通りに雑貨店を営んだことがあるけれど長続きもせず、でもO-LaLaは昔からそこにあり、
自分のちっぽけな小店とは違い、トゥトゥマック.レストランと共に通りの貌みたいなお店だった。
彼女の作る服は、そうだな、映画「ウッドストック」で観たような、そんな服だった。
60年代から70年代初め辺りくらいの。
Ubudにはそう云うひとや空気の名残が残っていたから。
あ、あれO-LaLaの服じゃないかな、なんていう西洋人の女性をよく見かけた。彼女の服のファンってきっと
たくさんいたんじゃないかと思う。
彼女の家に遊びに行くと、作りかけの服がトルソーにいつも掛かっていた。上手く言えないが長い服、丈の
ぞろっとした。
床には散らかったカラフルな端切れ。そう云うアトリエで暮らしていた。
パダンテガルの田圃の畦道をてくてくと歩いてゆくとある、2階建ての小さい家。

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良く音楽の話をした。
好みが近い部分も多かった。
ディヴィッド.ボウイーやトッド.ラングレンやキングクリムゾン。
じゃあボウイーのアルバムで何が好き?の話では、自分はそれは断然'Low'だな、なんて通ぶって答えて。
ね、こう云うところが自分は駄目なところと云うか、鼻持ちならぬ奴と云うか、素直でないと云うか。
ゆうこさんにはそう云うところが微塵もなかった。
いっつも自然。いっつも機嫌が良さそうだった。

恥ずかしいことだ、ホントに。俺の莫迦。

超自然的な存在は、この世では普通ではないからその様に呼ばれるけれど、ゆうこさんがいま居る処はそっちの方が
普通だ。
だからそう云うものたちと暮らしてきたゆうこさんはいまきっと満足してると思う、やっぱりそうだったのか、なんて。

かつてゆうこさんだった身体が、あの炎の部屋へと引きこまれてゆく少し前から、自分の裡では音楽が鳴っていた。
柔らかい音色のアコースティック.ギターのストロークが天上からゆうこさんを迎えに、、
ゆっくりと自分は10からカウントダウンを始めていた。
エイト、セブン、シクス、ファイブ、フォー、スリー、ツー、ワン、、、Lift Off...

スターマンはお空で待っている。
スターマンがあの空の果てで待っている。

メロトロンの音と共に「遙かなる処」へ昇って行ったゆうこさんだった意識体は、あのとてつもなく、広いところで、
前も後ろもない、右も左もない、上も下もない怖いくらい広い広いところで、もうこの世には居ない大好きな
ミュージシャンたちの意識体と出会えただろうか。

まるで現代美術館みたいな無機質な斎場で、自分はエーテルに包まれて。

とまれ。

ゆうこさん。
いまはさよならを言いましょう。
でもいつか、想像もつかないような異なる次元で、きっとまたお逢いしましょう。

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「ご隠居」

2022年 3月11日 逝去。

宝石のような、いや、そんなものに例えなくとも、かけがえなのなき素晴らしき日々、で良い。
その日々がもしなかったとしたら、、そんなことは怖くて考えることも出来ない、
かつてそのような時間を持っていたことがある。

その裡に彼は居た。
ニュークニン.アキ。アキさん。ぼくだけがご隠居と呼んでいたのかも知れない。
ニュークニンとはUbudの外れにある静かな村で、彼は最後までその村に居住していた。

我が家も最後はその村に落ち着いて長いこと暮らした村。
その前はプネスタナンという村に住んでいて、その時近所に居住していた絵描きのTちゃんとすぐに仲良くなった。
その彼女が、ちょっと興味深い人がいる、と。
それが彼だった。

ほどなくして顔見知りになったのだが。
実はその頃のことはもうあまり覚えてはいない。僕も歳をとった。20数年も以前の刻。

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生活雑貨扱ったり、軽便で簡易な飲食店を兼ねていることもある名もなき小店が島じゅうにある。
ワルンと呼ばれ、こっちの生活には欠かせない存在。

繁華な通りから一本外れた静かな裏通りの角にあったワルン。デヴィ.シータ通りとゴータマ通りのクロスする角っこ。
だから僕たちは角ワルンと命名した。
店先は通りより少しだけ高くなっていて、ちょうど座り込むにはほど良い高さ。
そこで彼はワルンで扱う椰子酒を呑んでいる。
自分はそのワルンのはす向かい辺りでツーリスト相手の土産物店をやっていたこともあり、お店を閉めると
毎晩のように一緒に呑んだ。
なにしろ彼は夕方必ず其処に居たから。
在住の友人たち、旅の途中の友人たち、あの道端の場所には色んな人が来た。家人も夢のように小さかった息子もね。
みんながあの黄金の刻を共有した。
そう、色に例えるならば黄金色。何故ならばそれはいつも夕刻なわけで、逢魔が刻なわけで、太陽の最後の金色の粉が
大気一杯に舞っている時間だったから。
Ubud男会が発生したのも此処だ。だがこのつれづれは女子たちが嫉妬しそうなのでやめておくことにして。

そうしてひとしきり呑んだあとは、じゃあ晩御飯行こうよって、みんなで繰り出した。バイク、自転車、車で、
何だってOK,お目当ての店で再集合。
呑んべの自分は其処でもおおいに呑んで、でも彼はそうではなくご飯を食べて珈琲をいつも頼んでいた。
自分の頃合いと云うものを良く良く分かっていたのだろうと思う。
酒で乱れた姿はかつて一度も見たことはなかったものな。

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天邪鬼。
一言で彼を表するならこれだ、あまのじゃく、凄く。
かつて彼を知っていた人ならば、賛成してくれるだろうと思う。
お酒の記憶ばかりなのは自分らしくて良いが、音楽の記憶も忘れてはならぬ、と思う。
彼の吹くディジュリドゥーはそりゃ素晴らしかったよ。
だが人に聴かせるためじゃなく、自分のためにだと言っていた気がする。
だから滅多に人前で吹くことはしなかった。
だが一度だけステージに引っ張り上げたことがあった。2004年のことだ。
スマトラ沖大地震と云うのがあって、アチェが津波の甚大な被害を受けた。

自分はただちに友人の経営する大きなライブ.レストランに交渉して「Save Ach」というチャリティー
コンサートを企画し、彼を引っ張り出した。
断られるかな、とも思ったが、そういう事情ならば、と快諾してくれた。
Uncle Angelique と云うセッショングループを結成してそこに入ってもらったのだ。

そこには亡きスウェントラ師やOded、Arifもいた。
そこにどうしても混ざりたかった楽器のできない画家のJasonMonetはいつの間にか後ろにいて得意のホーミー
を唸っていたな。
日本からはTommyさん擁するYAA楽団を招聘した。ま、そうは言っても自腹で手弁当。有難かったなぁ。

最後はその店のハコバンだった連中が、自分たちに声を掛けなかったことに嫉妬して、卑劣にもステージを
乗っ取るという暴挙に出たが、そんなことはもうどうでも良かった。
多額のドネーションが集まったからね。緊急性高い出来事にはまず現金が一番だから。

ヴィザの更新でシンガポールへ行ったとき、ちょうど彼も同じ理由で行っていて、向こうで待ち合わせして
遊んだこともあったな。
バリへ戻る機内では、空港の免税店で買ったウイスキーをさっさと開けて、酒盛りをした。

ニュークニンの外れに自分で建てた変わった造作の家に住んでいた。
囲炉裏が切ってあって、そこで呑むお酒も旨かったな。
家はどんどん増殖していって、周囲にお濠を張り巡らせ、その内側に竹の御殿が出来ていった。
増殖は止まず、そのうち多層階の、奇怪だが凄く居心地の良いカフェーが出現した。

13cm 30cm


名は「Cafe Mancing」マンチンって釣りのことだ。
周囲はお濠なわけで、そこが釣り堀になっていて、良く楽しんだ。ま、小っちゃい奴ばかりで、クチボソ級の。
昼日中、だらりんごろりんするには最高の場所だった。

だが桃源郷もそのうち、無神経な西洋人たちに荒らされてしまったらしい。さもありなんこと。

26cm 50cm

とまれ。
いつでもそこに居る、と思いこんでいたひとが、今日はもういない。
たとえ最後の席で喧嘩別れみたいになってしまっていたとしても、また会えればすぐに仲直りできると思ってた。
昔みたいに道端で、バジェット.ツーリスト向けの安食堂で、椰子のお酒酌み交わして。
そんな風に思ってた。きっとそのうちにってね。

でも時は待ってはくれぬ、全然待ってはくれない。

彼の魂もまた、一条の煙の如きになって虚空に昇り、かつて彼の魂の容れものだった身体は灰となり、すでに
海に在ると云う。

活動を止め、ただの容れものになった翌日には異教徒用の焼き場で荼毘に付され、すぐに海へと。何と早い。
だがそれは潔さが身上だった彼らしいこと、と思う。
とまれ。
何時か何処かの海岸で、水辺で、その水に触れたならきっと。

46cm

とまれ。とまれ。とまれ。

Selamat Jalan...ご隠居。
どの様な場所に行かれるのか、まるでわかりませんけれど、良い旅を続けてください。

10web

 

 

 

 

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2022年2月20日 (日)

ときどきトランス日記 No.107 / 去年のお正月には、こんな一年になるなんて思いもしなかったのに。 でも年渡る。

12月って云うのは、いや、もう2月だけどね、いま。
でもなんだか去年の12月のこと、なかなか日記に書けなくて。
それで今頃。

12月のこと。
昔っから、子供の頃から、12月って云うのはまず父の誕生日があって、クリスマスがあって、ぼくの
誕生日があって、それが終わるとすぐに歳末、大みそか、お正月。
どれもが必ずやって来る、もれずにやって来る、何とこころ強いこと。
楽しみなお正月を控えた12月、大晦日を目指して町も人も忙しそうに明け暮れて。
そうしてお茶の間のテレビは絶頂を迎え、しかし刹那、永平寺の鐘の音ですっと空気が完全に入れ替わる、あの感じ。
と、これは随分昔のお話。テレビしかなかった時代の。

そう云う12月に息子の誕生日が父の誕生日とクリスマスのあいだに挟まった。
あれからもう22年も積み重なったんだな、、雨季真っ最中の蒸し暑いバリの、椰子の樹の煙る雨のあの午後から。

そうしてもうひとつ、数年前から横浜のエアジンというライブハウスのステージがクリスマス近くの日曜日に挟まった。
だから、12月に必ずやって来るものがふたつ増えた。どれもがちょっぴり楽し気。
でもそこから父の誕生日はことんと抜けてった。

去年のうちに母が、そうして父も亡くなって。
勿論11月16日が、12月10日が、彼らの誕生日であることは間違いないけれど、もうお祝いはしない。
その日が来れば、あぁ、今日は誕生日だったよなぁ、と思い出すばかりの。
これからはきっと命日の方に気持ちの重きを置くのだろう、大きな出来事だったもの。

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とまれ。
19日に息子の誕生日を祝い、26日には、自分にとってはサンクチュアリであるエアジンへ。
此処はぼくにとっては神社の如くの神域、聖域であり、参る、詣でるという表現が相応しいと思う。
そうしてそのステージで、ある「ゾーン」に立ち入ると云う体験をさせて頂く。

実はこのゾーンの存在に気付いたのは1年ほど前のレコーディングの時だった。
この時自分は初めてクリック音を使用した録音を体験して、それ以外にもクリックを使わない録音も行い、
そのふたつの狭間で、あれ、何だこれ?と。

このゾーンに入ると、自分、が消えてなくなる。巧い表現が見つからないが、自我というものが
消えるのかも知れない。
何と云うか、自我があるうちは1秒先の自分を常に計画して過ごしているわけで、でもその計画が消える。
計画の支配下にいない自分。
計画があるうちは、計画がある故に失敗もある。でも計画がなければ失敗もない、不思議なことだ。
そのような不可思議なゾーンに1曲を演奏中に僅かながらの時間、入れる時がある。
あぁ、今だ、此処だ、でもそう思い、意識してしまうともう其処には居ない。
ずうっと其処に居続けれるひとこそが真のアーティストなのだろうと思う。だが凡庸な自分はそうではない。
口惜しいことだが仕方のないこと、と思う。

Eji4 Eji3

ひとって云うのは決してひとつじゃない。少なくとも僕はそうだ。
幾つもの自分がいる。
多面体の僕は、その時々の面で暮らしている。
それが一本化する。ゾーンでは。
何と云うか、五感が其処へ向かって瞬時に一気に流入する。
怒涛の刹那、いつの間にか僕は其処に「居る」

ところでその晩。
この様なご時世、ステージの配信と云うものも同時に行ったのですが、配信用の特殊なマイキングで、
しかも自分のティンクリッはノーマイクと云う初めての経験。
後日配信を観てみたら、音のバランスが素晴らしく良い。
全体をカヴァーするマイキングだけで拾う楽器と、ラインで引いた楽器とのバランスが良い。

それが配信されている。
これは良く良く考えてみると凄いことだ。
あのゾーンが、神域が、世界中の御家庭に配信されている。届いちゃう。

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そうしてその二日後、自分は家族に誕生日を祝って貰い、プレゼントだって貰ったりして歳末,大晦日へと。
久しぶりの家族そろった大晦日。

Mame

子供の頃に味わった、12月のあのワクワクする感じはもう大分減ってしまったけれど、ドリフターズも
ジャイアント馬場もアントニオ猪木も、もうテレビからいなくなってしまった12月だけれど、それでも
12月はいまでも特別な月。

お正月の挨拶をしない元旦、でも美味しいお酒とお雑煮とささやかなおせち料理を食べた。

小振りではあるけれど、ちゃんとした作りの舞台だ。
上下(かみしも)にはきちんと袖がある。リハーサルのとき、軽く足でリズムを取ってみたらば、その床下に
奈落の感触が響いた。
緞帳の如き役割を果たすスクリーン、見上げれば照明のバトン。
劇場だなぁ、、と嬉しくなってしまう。
そう、此処はもと「自由劇場」なのだ。
とまれ、2月13日。雨のシャーベット降る寒い日曜日。六本木「新世界」で。

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舞台に熱帯の花が咲く。
バティック作家、麻生クミさんの作品。
柔らかさと厚みがある、触らなくてもそれが伝わる。
触れればきっと欲しくなる。TingklikもKalimbaも懐かしい熱帯の夢を見る。
バリ舞踊、有機的な音楽。
アニミズム満ちる箱の裡で。

Odo1 Odo2

演目がハネて外へ出てみれば、厳寒の東京の夜。
さあて、ひとっ走り、暖かいお酒待つ我が家へ帰ろう。

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2021年10月19日 (火)

ときどきトランス日記 No.106 / ふたり。

「呆れたもんだ」
父の口癖。それが聞こえてきそうだった。

焼却口から出てきた父の骨はそれほどの量だったから。
母の時の倍くらいはありそうだった。
骨壺に納める時、これは全部収まり切れないのではないかと皆が心配した。
けれど係の人が上手に納めてくれた。
これほどしっかりと形を留めている御遺骨はなかなかお目にかかれない、そうだ。

とまれ、先の9月20日早朝、父は現世から完全にリリースされてゆきました。

Sougai

終末期、今生の際の数日間、自分は夕から朝方にかけて独り実家に居り、息を詰めるような
長い夜を過ごしていました。
時々寝室へ行き、あぁ、息をしているな、と布団を直すばかりの長い夜。
もう眼を開けることもなく、意識もあったりなかったりと、その命は最後の刻へと振り子のように
揺れておりました。

そうして黎明を迎えるほんの少し前、先ほど生存の確認をしたばかりだったけれど、
何とも言えぬ感じを覚え、もう一度寝室へと、父の側へと。

その父が突然開眼し、首を回してしかと僕を見据え、半身を起こすような強い体動ののち、
虚空に手を伸ばし、何ものかを指差したのです。
その先にあったものは、ベッドの足許にある小さなテーブルに置いた母の写真でした。
そうして何か一言を発したのですが、僕には聞き取れませんでした。
「え、何?なんて言ったの?」
これが父にかけた僕の最後の言葉になりました。

そうして全身の力、これは生と言い換えても良いかと思います、それがふうっと抜けて父は
母のいる遥かなる場所へと。

勿論自分には見えなかったけれど、あの刹那、3カ月前に先に旅立った母は、ひと時この家に
戻りテーブルの脇に立っていたのかも知れないといまは思うのです。
勿論父を迎えに。

連れだって、呆れるほどあちこちと世界中を旅して来たふたりの最後の旅に、母は父を誘いに来たの
かも知れません。
いや、最後ではなく、全然別の次元の新しい旅なのかも、とも思います。

とまれ、そのようなストーリーを子供たちに残し、ふたりは行ってしまいました。

父、享年93歳 2021年9月20日 没。
母、享年92歳 2021年6月20日 没。

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9月24日、近しい家族5人だけの火葬式。
母の時と同じく、多摩霊園脇の火葬場、夏の暑さも褪せた秋の始まりのいちにちに。

父もまた母と同じように棚引く一条の煙となり、空へと、大気の裡へと溶けてゆきました。
空葬とは空からの散骨を行う葬儀であるけれど、これもまた空葬なのだと、あの時と同じことを
ぼんやりと思っていました。
あの時と違うのは、6人が5人になったこと。たったそれだけの違いの既視の一日を過ごして。

そうして今日。
思うことは、人がひとり人生を終えると云うことは、そう云うことなのか、色んなもの、
ことがこれほど大量に残るんだな、としみじみ味わっています。
父の書斎に残された、膨大な量の書籍、書き付け、新聞の切り抜き(そのすべてに判読不能な書き付け)
これもまた判読できるかどうか分からぬ大量の原稿の束。
押入れの中も、有島武郎から譲られたと云う大きなデスクの上にも下にも、文机にも、床にも、
階段脇の狭いスペースにも、積み重なる紙、紙、紙、紙。
時を止めた壮絶なる紙の宮殿だけが2階いっぱいに広がっており、どこから手を付けてよいのやら途方に
暮れるばかりの今日。

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父の話。

文学を志した父は北大の医学部に入るも、中途で文学部へと転部した。
医学博士であった祖父は父が中学生の頃に軍属の医師として中国へ渡り戦死している。
悪名高い、日本軍が中国で行ったとされる、人体実験はじめ、数々の残虐行為に父親が拘わっていたのでは
ないかと、その真偽を一生涯かけて追い求めていたが、その答えを得られたのかどうか、僕は知らない。

祖母は父には強く医学の道を歩ませたかったらしい。けれど、文学の新人賞をものにした父は
覚悟を決めたのだろうと思う。
それを振り切り母と2歳の姉を連れ札幌より上京。

科学技術庁に勤めていたこともあるし、何かの役所勤めだったこともあるそうですが、自分にとっての
父は子供の頃は、何をしているのか良く解らないひとでした。
会話らしい会話をした記憶も殆どありません。

いくつかの職を経ながら書いた2作目は、通俗的であると三島由紀夫に酷評され、そのことを父は長いこと
恨みに思っていたと最近姉から聞かされた。
そうして晩年まで、大学で英文学の講義をしたり、翻訳をしながら書き続けたけれど、とうとうその後の作品
は未発表のまま人生を終えてしまった。

2

自分たちがUBUD村に居住していた頃、もう亡くなっていますが、懇意にしていたゲイのシローさんと云う人がいた。
彼はごく若い頃に三島の恋人であり、その頃の写真も懐かしそうに見せてくれたものでした。
父母がバリに来た折り彼に会っているのだけれど、母は歌舞伎町の3丁目にほど近い診療所に
長いこと勤めていたのでゲイには馴れっこで、普通にお喋りしていましたが、父がその時、その逸話を
知ったらば、何と思っただろう。

とまれ。
梅田家の子供たち、つまり僕と姉は子供の頃から父との確執が強くあり、常に遥かなる、埋めるすべもない
距離を感じていました。
その存在の強さ、大きさで家族はいつも押しつぶされそうに暮らしていたように思います。
けれど家族に手を上げたことは決してなく、暴力をも凌駕する巨大な「知」のちから、思想と言い換えても
良いもので、家庭というものに君臨していたのだと思います。

その距離は父自らが作ったもので、道内で母親連合会、恐らくは女性運動の先駆けのような団体、の会長で
少なからずの力を持っていた母親に強権的に育てられたことに起因するものではないかといまは思うばかりです。

その様な父でありました。
その半生の殆どの時間を書斎で過ごし、運動など一切しなかったのに、あの骨量、骨密度、、

「呆れたもんだ」
僕も思わずそう呟かずにはおれませんでした。

Veranda

ーーーーーーーーーーーーー

それでも、母の後はしばらくは平穏な明け暮れが続いており、こんな一日もありました。

荒天。
時折ばらばらっと大粒の雨が降って来る。
空の模様も忙しい、雲も青空もきれぎれの嵌め絵が動く玩具のよう。
風がびゅーびゅー吹いている末広通りは清潔で気持ちが良いな、と思う。

とまれ。
こんな真昼間の吉祥寺は随分とご無沙汰だった。

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友人のアーティスト馬場敬一氏の参加している、グループ展「Rooms」

現パンデミック下に於ける「部屋」に対する視座とその表現、というところだろうか。
この切り口は興味深く、しかし自分は過剰な期待をしてしまったみたい。

うっすらとポップ。うっすらと楽しかったり可愛かったり。
そこからうっすらと吹いてくる風は、室外=世界への無関心なのだろうと思った。
しかし、まさにいまの世相を顕わしているなとは思った。

でもしかし、それは芸術ではないのですね。
他人の無関心には僕はもっと無関心。
そういう自分の忌むべき無関心さを打砕いてくれるものが芸術なわけで、、
けれどこれはホントに個的私的な話でしかないです、自分にとってのそれの話。

ただ会場に入ってひと巡りしてまず思ったことは、、
あぁ、またか。いまこういうの多いんだよなぁ、と。

この作家たちの年齢分布はわからないけれども、10代の凄い子たちが一瞬で抜き去って
いくんだろうなぁ。
其処に、しかし馬場敬一の作品は、禍々しいとさえ思える太い釘を深々と打ち込んでいた。

じゃあ其処って何処?
それはね、世間じゃ規制、縛り。広義の範囲ならばもっともっと色んなことが起こっているわけで、
そうすると内圧も高まろうと思うがね、そこはやはりうっすらと、内的宇宙もうっすらとさ、って
いう場所のことさ。

内圧。
それを様々なかたちで表出、噴出させてきた氏であるが、今回はそれを樹脂で封じ込めてしまった。
自分はそれを水族館で奇怪な深海魚を眺めるように観ている。
だがそれをじっと見つめていると、次第に水の滴るこの惑星に行きつくのだ。

Babaa

内圧。それは芸術と商業アートを分かつ分水嶺でもある。

年内には個展を開けそうだという。
この今、が向かう先は何処なんだろう、とそれは大いに楽しみである。
だって世界は刻々と、予想だに出来ぬ変態変質変容を起こしている。人類は全然追いついていない。
遥かに半周遅れの苦しいレースを虫の息で追っている。

作品は「世界」に呼応する。
だからさ。

 

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2021年7月26日 (月)

ときどきトランス日記 No.105 / みどりの指2、いつの間にか夏に。

いつの間にか明けていたこの梅雨は、でもぼくにとってはあまりにも特別な梅雨でした。
そぼ降る雨の中、真っ白な母の棺が実家の庭をゆらゆらと横切ってゆく。自分は勿論その運び手の
ひとりだったのだけれど、その光景を何処か違う場所で見ている自分の存在も感じていた。
時間をかけてゆっくりとこの世を離れていった母、それを自分もゆっくりと受け入れたので、
それはその節々の時間に予め幻視していた光景なのかも知れなかった。

何故ならば、この家から棺が運び出されるのは4度目のこと。
そのどの時にも自分はいた。
1度目のときは、曾祖母の時だから、まだ小学校へも上がらぬ歳だったろうと思うが、
いくつかの光景を覚えている。それはこころに焼きついている古い写真だ。

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多摩霊園の脇ある火葬場で車を降りた自分は、あぁ、此処は知っていると思った。
生まれたときから一緒に住んでいた大叔母の時も、認知症が進み独居が無理になって
札幌から連れてきた祖母を送った時も確かに此処だったのだ。
もう30数年前の記憶だ。
父にそのことを問うてみたが、そうだったかな、、と。

とまれ。
アイボリー色の乾いた清潔そうなカケラの小山ひとつ残して、かつて母だった実体は永久に失くなりました。
僕が密かに自慢に思っていたあのみどりの指さえも。
この小さなカケラたちは寧ろ陽の燦々たる砂浜が似つかわしく思う。それはいつか砂や珊瑚の死骸に同化して
見えなくなってゆく。

Ie3

死んだ人の魂が見えるとか、そう云う霊能力者的の戯言は信じないし、ペテンではないにしても、それは
その人の歪んだ自己実現の希求にしか過ぎず、何れ肥大した精神の妄想であろうと思う僕ですが、それでも
実体を失くしてしまってもなお残る「ナニモノ」かはあるのだろうと思う。

生あるものには決して辿りつけない「あっちの方」に「居る」その感じはなんとなく感ずることは出来る。
だが、それだけのことだ。
自分も生と実体を失くしたら行くだろう果てしもない場所。
其処は遠い遠い処なのだろうか、それとも皮膚一枚の薄さでこの世に密着している見えない世界なのだろうか。
自分は後者が怪しいのではないかと睨んでいる。
その薄い膜の綻びから漏れ出すもののあることは、霊能者とは一切拘わりのないところで起こりうることなのかも
知れない。

けれどそれらは死んでからの話なのでいまはどうでも良いことなのだと思う。

とまれ。
母は一条の煙となり、煙は靄になり大気に溶けてゆきました。雨上がりの初夏の空へと。
それを家族だけで見送った午後でした。
火葬というのは、空葬なのだなとその時ぼんやりと思っていました。

Kage

取り返しのつかぬほどの幾つもの過ち、その大半は自分と父であろうと思うが、黙って受け止めてなんとかこの家を
存続させてきた母。
偉大なるひと、といま思う。今頃思う。
すみません。
良き息子、善き家族では決してありませんでした。

それでもこんなに長きあいだ、あなたの息子でいさせてくれたこと、感謝していますこころから。
ありがとうございました。

Seigo

*アルバムにあるこの写真の脇には、生後一週間、と記してありました。
数ページ進むと、あぁ、これは、、幼稚園へ上がる前の保育所なのか、お絵かき教室なのか、の写真。
ディズニーの百一匹ワンちゃん大行進の絵柄の青い画材鞄。ぼくのいちばん古い「もの」の記憶。


暑い。
ぽかーんとした夏空に昼日中の月ひとつ。
でも今日は風に涼味がある。
声で言うとマリンガールズ~ソロになった頃のトレイシー.ソーン。

Reco

家族は皆出掛けていて、独りぼっちの休日哉。
レコードを13枚選んで朝から音の洗濯。
レコード干し台が13枚分なのでね。
友人の遺品として、彼に残された僅かな生前の時間に譲り受けたオーディオセット。それと一緒に抱え込んだ大量の
アナログ盤、それに自分のコレクション足して、数えたこともないが兎に角大量、段ボールに何箱もある。
時々そこから13枚を抜き取って洗浄したりしているのだけれど、これが楽しい。
洗ってすぐのは聴くことが出来ないので、前回洗った13枚を楽しむのだ。
そのアンプにはpure directというスイッチがあって、これを作動させるとイコライジングは無効になるのだけれど、
実に素直な良い音を出してくれてとても気に入っている。

ジェノベーゼのパスタとサラダを拵えて赤ワイン。
グラスにぎちぎちに氷を詰めてかち割り夏ワイン、ペンギンカフェ.オーケストラ。

Hifiset Reco2

しかし、ちらりとニュースを覗いて自分は驚き呆れてしまった。
こんなになってしまっても尚、内閣の支持率がまだ30%弱もあると云う。
抽出法による統計だろうし、その数字が過去最低だとしてもだ、矢張り呆れる。
支持の可否の根拠など、結局は損得勘定。針は得になる方へと振れる。
でもホントに得をするのは全国民の1%にも遥かに足りないんじゃないか?
そんなものを何故支持するのか、自分はちっともわからない。

代替がないから、いないから、、
その通りだと僕も思う。
けど、損してももう得は取れぬ、そういう風に世の中は書き換えられている。損ばかりが
続くように知らぬ間にすり替えられている。

不信に依る覚醒は希望無く、先の見えないもののように見えるけど、だがそうではないと思う。
そのとき、自分は自分と出会う、そうして良く良く己と話し合って、自分は自分に回帰するのだと思う。
いちばん先に国民ひとりびとりが変わらなければ、この先の良い変化は決して望めないと思う。
国が良い方へ振れることを望む前に、まず自分が振れなければ、、
逆の順ではもう駄目なんだと思う。
コロナの災厄からオリパラ開催へのごたごた。そこで毎日のように露見して来たこの国の悪性の病巣。
国はそれがバレた端から対処療法で誤魔化してきた。
もう騙されないぞ、と思う。

けれどそれもこれも、開催が終わり、ワクチンがみんなに行き渡れば忘れられて行くのだろうか。
あぁ、そんなこともあったねと、うっすら思い出されるだけの。3.11のように。

とまれ。
Hopelessな夏は避けようもなくもう始まっている。
目玉をぐるりと裏返して涼しげに明け暮らすことも出来ようが、自分は大汗かいて暮らしてゆこうと思う。

Mare_20210726075001

 

 

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2021年6月25日 (金)

ときどきトランス日記 No.104 / みどりの指。

母はゆっくりゆっくり、少しづつ、この世を離れていったのだと思う。
時々会いに行くたびに、あぁ、また少し離れた、と思った。

アルツハイマーによる認知機能低下の進行、癌の進行。
実家の、緑深い庭に面した居間の椅子で、それらはゆっくりと進んだ。
自分で手をかけた庭を一日中眺めては、母はいったい何を想って自分の精神、肉体の変化
変容と向き合っていたのだろう。

Yuri

GreenFingerだった母。その手で出来ていた庭。
けれど、もう大分前からその手からは離れていた。そうして緑は深くなっていった。

Niwa1 Ajisai Niwa2 Taizanboku

調子の良い時はその椅子に座っていたが、ベッドに寝た切りで一日過ぎることもあった。
このところは言葉を発することもなく、その日はベッドの中から僕をじっと見つめていた。
あぁ、この眼は、その表情は知っている、と思った。
僕が叱られている時のそれだ、と思った。なんだか懐かしいような、、
それが僕との最後の時間でした。

92年の生涯。
その後半は父をお供に、世界中を旅してきたひと。
最後の旅先はクロアチアだったと思う。
アドリア海を挟み、イタリア半島の対岸の国。
ヨーロッパが好きで、大陸をくまなく旅行していたその理由は、、パンが美味しいから、
そう言っていた。

とまれ。

眼を閉じた母はこの世から離れてゆきました。もう完全に。
かつて母だった身体は今日はもう消滅し、かつて命、と呼ばれたものは人の科学の及ばない向こう側へと。
上も下もない。前も後ろもない、そういう処へと。自由だけが果てもなく拡がっている処へと。

自分のこころに出来た母ひとりぶんの洞、けれどそれを埋める必要はないのだな、と思う。
それと一緒にぼくは生きていけば良い。もうそれほど長いことでもない。
その洞ひとつ分の質量がすっぽり抜け落ちた所為で、少しこころが軽くなったような気もする。

そうか、そうやって少しづつ軽くなって、ひとはこの世を離れてゆくのだな、そう思う。

Ie

そうではない離れ方をした命、無理矢理に、突然に、性急に、理不尽に、この世から引き剥がされた命。
そういう命は可哀そうだ。
ずたずたに、ぼろぼろに、傷ついているに違いない。
そう云う命との別離は、悲しみよりも先に受け入れることすら出来ぬことだろうと思う。
そうではなかったことには、感謝仕切れぬものを感じる。ぼくはゆっくりと、時間をかけて、少しづつ
さよならをしたのだから。
この思いは息子も家人も、きっと同じと思う。

Motomachi

とまれ、そうしてこの6月は過ぎ、終わろうとしています。

まだ緊急事態宣言下の阿佐ヶ谷の町で、何処か酒の飲めぬところはないものかと、自分はうろうろ
していた。
けれど開けている店は数少なく、何処も満員で一人分の隙間もない。
けれど何のアルコオル気もなく今晩の公演に行くのも寂しい。
けれど、運よく数人の客が引いたばかりのコの字のカウンターだけの小さな店に通りがかり、しゅっと
自分は収まり、人心地ついて。
こんな逢魔が刻の町の小店で酒を呑むことが好きだ。

濃い。
小泉ちづこのダンスで今迄それを感じることはなかったが、
そのような晩だった。
夜の濃さが沁みてくるような。

阿佐ヶ谷ヴィオロン。

大気を操り、疾風の如く吹くダンサー。
だが今晩彼女に用意されているのは、四方1.5m程度のスクエアー。
すぐ目の前にあるその空間で、彼女はどのように吹くのだろう、、

ところで絶対条件として、生物はその身体の裡に自然界を持っている。
けれど、殆どの者が其処は無意識の領域、と思う。

彼女の踊りはしかしまさに其処からの波動に満ちている。
裡なる自然界、それを意識し、操り、表現へと変換されるもの、こと。

だが。
ひとはひとなのである。
自然を完全に操ることなど、ひとには到底出来ぬこと。
だからそこには苦しみや苦悩がつき纏う。
ひととしての邪気が生まれ、無邪気の海へと呑みこまれてゆく。
そして芸術はまさにその場所でしか生まれぬし、育たない。

Tizu1

非常にアンビエントな感覚を持っていると思うギターリストの野村氏は、そのことを
良く良く感じ取って弾いているのだと思った。

Tizu2

自分の知っている彼女の踊りは速い、または止まりそうにゆっくりな、
または完全に静止していても、その皮膚一枚下には速度が満ちている。
バリ芸能を完全に体得しているものにしか出来ぬこと。
だが今晩の彼女はどうだ、と思う。
速度を極限まで殺し、その向こう側から立ち現れるものの濃密さに自分は打たれた。

バリ芸能をベースとしながらも、その頂を越えてしまった。
その分水嶺から分かつ水の流れ、それがいまの小泉ちづこなのだろうと思った。
その水流は喜びの海へと、果てしなく。

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2021年4月22日 (木)

ときどきトランス日記 No.103 / さよならの虚空。

訃報を受け取るならば、却ってこんな日の方が良いな。
まるで初夏のような空。雲ひとつない空の日。

I.Ketut.Weces

素晴らしいアーティストでありアウトロー。
飛び切りの変わり者。Don Juan。
旧い旧い可笑しな友。

子供じみている、とは言わないが、彼が大人だったことはかつてなかった、と思う。
何故ならば、大人が顔をしかめることばかりしていたからね。

小さかった息子に会うと、彼独特のTata Lucu(可笑しなやり方)でいつもかまってくれた。
いまさらながら、お礼を言いたいような気分さ。

Wece Kumo

昨日は少し事情があり、その時分、建物の9階に自分はいた。
ふと窓外に目を遣ると、雲ひとつなかった空に、まるで彼のタッチそのものみたいな小さな
雲が出現していた。
一体何処から、、ぽつんとただひとつ場違いな感じでさ。
あぁ、これはまるで、、と思っているうちに、1~2分の間のこと、すうっと消えていった。
雲の消えたとりつく島もないその空は、虚空。そう呼ばれるものだ。

その時分。

自分はタブレットを開き「狼は天使の匂い」という名前のロックバンドについて書き付けを行っていた。
これは架空のロックバンドではあるが、見せかけではない、本物の性急さを感じる音なんだ。

その時分。

その部屋では、チリー.ゴンザーレスのSolo Piano 2が小さな音量で流れていた。
ヘーゼルナッツの風味のある珈琲の匂いがしていた。

その時分。

ある性急な事情があり、自分と妻は別々の場所で、懇意にしている友人カップルと、関する情報を共有、交換
考察などを何度も何度もSNSで行っていた。
そうしてそれは「絆」と云うものに結実して行った。

その時分。
その時分。
その時分、

とまれ。
彼はもう居ない。

だが悲しみ、は彼の島の信仰の流儀ではない。
だから生涯アウトローを貫いた男の貌を想うだけだ。
たかだか10年と少し、同じ村に暮らしていただけだ。
けど、彼の作品は沢山見てきたし、僕が音楽を演る場所にいつも彼はいたような気がする。
たったそれだけのことだ。
たったそれだけの。

だから、もう別れよう、こんな季節だもの。
桜の季節は矢張りさよならの季節なんだろう。
R.I.P誰かさん、、何度もこの季節にそう書いた気がする。
R.I.P、昨日。楽しかった春の一日。俺。君。わたしたち。

Ikada

そうして桜はやはりあの世との狭間に咲くものなのだろう。
亡き友との春の約束は今年も果たせなかったけれど、あぁ、あっちの方に居るんだと、花筏はその流れの先の方で
ちらりと垣間見せてくれた。

無情に無常に、季節は過ぎゆく。
夏が来てしまえば、この春のことなど誰も思いださぬのだろう。
冬が深まれば、秋のことなど誰も思い出さず、ただ往った夏のことを懐かしむ。

僕は虚空に想う。

無常にして無情。
そうして其処に花が咲き、芸術が生まれる。

Kokuu

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2021年1月24日 (日)

ときどきトランス日記 No.102 / 災厄に真冬の陽が射して。

悪いお爺さんはこてんぱん、そうして逃げてゆきました。
良いお爺さんはそうして幸せに暮らしました。

とさ。
めでたしめでたし。

いや、本当にそうだろうか。

悪いお爺さんは悪いこともそりゃたくさんやって来たんだと思う。
それにあの貌。悪人面。
なにしろ悪人。
悪人面した悪人。

けれど、善人面した悪人の方が自分は恐ろしい。
静かで暖かなその貌の裏側は、欲望で煮えたぎる貌。

村のひとたちの3割くらいはそのことに気付いていると云う、、

しかしそうして、村の歴史は同じように踏襲されていくのだろうな。
粛々。

Ana

ーーーーーーーーーーーーーー

過日。
おおよそ10年振りのCDが出来上がりました。

10年の熟成期間の、と云うとなんだか美酒のようでもあり、お目出度い。
味噌、でも良いな。

災厄の最中であろうとも、出す。
そう云う選択をしました。
でも販売の頼みの綱のライブは殆ど行えない状況にある。
だが出す。

そう云う気持ちを高めるべく、自分たちは暮れにレコ発ライブを敢行した。
12月20日、日曜日
@横浜エアジン。
此処は自分にとっては音楽の御堂であり、その宮司である實さんが大切に守っておられる神聖な場所である。
なので今日は、禊の日でもある毎年の重要な参り、行事。

2jac

人数制限とか換気、配信も含めて初めてのことばかり。
しかも数日前から左の親指の爪、先端から3分の1位のとこに亀裂が入っている。
これが割れて取れてしまうとエラい事になる。カリンバの弦を弾くこと不能。
なので、瞬間接着剤を亀裂部分に盛り上げ、更に爪のコーティング液を毎日塗って大切に養生してきたのに、、

1曲目から割れてほげほげ。
インターバルで接着剤 ~ 割れる ~ 接着剤の繰り返し。でも最後まで取れずに行けた。

しかしレコーディング直後の演奏はレベル高く、僕もいくらでも弾けた、音が溢れて止まらなかった。
溢れすぎちゃって煩いくらいだったかも知れない。
指先の綱渡りなどはこういうゾーンに入ってしまうと存在しなくなる。
外の災厄さえも。

Stage

ところでこの災厄は、地球による地球規模の粛清が始まっているから、と言う人もいる。
超自然的な。
でも自分はそうは思わない。

利権に深く拘わった、いや、利権そのものでしかない陰謀の果て、と言う人もいる。
しかしそれはありそうなことだな、と思う。
そうして始まってしまったものが、暴走をし始めてコントロール不能になっているのかも知れない。
それとも未だナニモノかのコントロール下にあるのだろうか。
本当のことがわかるのは、しかしずうっと未来のことなんだと思う。
本当のことなんて最初っからなかったんだよ、と誰かが嗤う未来なのかも知れない。

とまれ。
そうして世界は、人類は、真っ二つに分断されてしまったという。
それはどういうふたつ?
利権を貪るために不安を煽る側。そこに追従すれば自分にも何か得があると考える側。
もうひとつは不安に駆られ右往左往する側、そのことで命を落とす側。
そのふたつ。

その後者は粛清とは無関係だ。小さな利が頼り、それを必死に守るだけの小さな民。
粛清されるべきは前者だ。
だからこれは超自然的なことではないと自分は考える。
超自然物は民を選別しないから。

翻って、しかしこれは進化だ、と思う。
いや、別に翻らなくとも良いのか。進化は超自然的な現象ではないと考えれば見えて来るものがある。

利がなければ生物の進化は起こらない。
望まなければ進化しない。望みとは利のことだ。
人類の進化は利権と供に在る。
利の望みの果てに人類は進化を成し遂げ、それを繰り返してきたのだと思う。

この度の利、とは言わずもがな、ワクチンのことだ。
それに向かって世界は全力疾走している、それによって世界は収斂し、進化は為される。

進化、が相応しい言葉でなければ、変化、変容、変質、変態でも。
ワクチンが行き渡り世界は変態を遂げる。地球が変質する。

自分の今生で人類の進化の過程に立ち会うとは思ってもみなかったことだった。
それでも僕の暮らし、日常は先へ先へと進んでゆく。粛々と。

Adachi

自分は介護福祉士でもあり、その現場はこの災厄でひりひりした空気に包まれている。
そういう空気がもう日常だ。
基礎疾患を持たぬ高齢者は少数だ。
重症化はイコールほぼ死亡。やはりワクチンの接種はした方が良いと思う。
だがそのリスクの少ない若者はしないで欲しいと自分は思う。しないことを恐れないでほしいと思う。

息子は若者である。若者ど真ん中の年齢だ。
だが彼が家庭内感染を恐れ気づかい、ワクチンを接種しようとするならば、
その前に自分は喜んで接種しようと思う。
家人もきっとそうするに違いない。そうして彼を止める、守る、一旦は。

だがワクチンの利によるこの進化は止まらぬだろう。
接種を行わないと生き辛い世がきっとやって来る。選別される時がきっと来る。
その時は自分の感覚を最大限に信じ、可否を選択してほしいと思う。
だが、いまはまだその時ではないと思うのだ。

何故なら、この進化はまだフェイクの段階であると思うから。
進化、を肯定的な言葉としてとらえるならば。

Takio 

上野の立ち呑み屋で思いは巡り小さく爆ぜる。
なに、身の裡だけの話しでね、行儀よくしてるのさ。
まだ正午をまわったばかり。
上野公園は真冬の陽射し。
これからさんさき坂をゆっくり下って行って、谷中まで。

Ueno

Sansaki

*今日みかけた一番の素敵な景色。
この女の子はこんな自転車屋さんで自転車を買って貰うのだろうか。
いいな。

Fuji1

 

 

 

 

 

 

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