2016年12月30日 (金)

ときどきトランス日記 No.76 / 2016年12月29日にぼくはダウン。

昨日の28日は僕の誕生日でした。
たくさんのお祝いの言葉を頂きました。

そう云う日に自分はインフルエンザを発症してしまい、年末の仕事も楽しみもなくなって。
けれど、そういう日にもっともっと悲しいことが起こっていました。

大好きで大好きで大好きな、ピエール.バル―がもう居ないんだよ。
2016年は残酷な年だった、のだろうか。
いや、そう思いたくはない。

でもこころのきまりがつかないんだよね。

うん、もう熱は下がっているんだよ。
でもね、周りへの迷惑を避けなくちゃいけないからね、3日程は外へは行けないのね。

色んな事があり過ぎた2016年がもうすぐぼくの裡から出ていって、ぼくのうしろに積み重なる。
大切な友人を癌で亡くし、そう云う自分も癌なんかになって、でも生き残った。

「ひとは何処から来て何処へゆくのか」

この人生の大命題には、嫌でも向き合わざるを得ない日々もあった。
答えなぞ見つかるはずもない、勿論のことだ。ただ黙って向き合うのみだ。

でもね、ぼくのライフワークでもある音速珈琲廊以外でも、ひとつ豊かな収穫を得た。

11月19日 PeaceFlag@ナタラジ荻窪

良い晩でした。

10年程ギターを弾いていない。しかし今宵の曲「PeaceWalk」はギターでなければならず、自分はだいぶ一生懸命に練習を行った。
けれどやっぱりね、気持ちが先へ先へと急ぐので、色んな思いも深過ぎて、思ってたほど上手には弾けなかったよ。

それでもやっぱり、良い晩だったんだよ。

数年毎に不思議な巡り合わせでbunと共演する。
そのことに意味づけることを無理にせずとも、あぁ、そうなんだな、とぼくは納得する。
その時そのような音が紡がれるから。

そうして、小泉ちづこと云う不思議なダンサー。いつか一緒にやってみたいなと思っていた機会が存外早くに訪れた。
自分はそれを真後ろから観ているわけで、白い幻の如きモノが可成りのスピードで視界のあちこちを移動してゆく。
彼女の踊りはたとえゆったりとした動きの場面であろうとも、その裡に速度が満ちている。音速の如き。

Nata1

町田さんのスティールパンのきらきらした薄い繭が場を包む。ツトムさんのジャンべの土の匂い。
bunのネイティブアメリカンフルート、ぼくの気持入り過ぎのギター。

ひとつ、になること。

PeaceFlag!
旗は振るもの。平和に向けてこの晩それは、ゆっくり大きく振られました。
旗はその下(もと)に集うもの。会場はこの晩その下、ひとつになりました。

Nata2
そうして、これに参加したアーティストがそれぞれの思いをフライヤーの為に寄せたのですが、ぼくの寄せた一文が以下です。
自分の音楽表現のかなり大きな部分を占めるルーツの如きものなので、書いておいて良かったなと思っているのです。

ーーーーーーーーーーーーー

やっぱり2001年ですね。9月11日のN.Y
世界が変容し始めた、っていうのを皆が強く感じ出したのは、、

僕はそう思うのです。

その頃、Bali島のUbudという村で妻と3歳になる息子と呑気に暮らしていたのですが、その幸せな暮らしに暗い翳が射してしまったことを憶えています。

そして翌年の10月12日。
この島一番の繁華な通りで爆弾テロが起こり、200人以上の死傷者が出ました。
N.Yの次の標的がBali島だったことに強い衝撃を受けました。

事件翌日の異様な空気、まるで時間が停止してしまったような町や村の空気をいまでもはっきりと憶えています。
平和な世界がぐしゃりと潰れ、自分の暮らしさえもがそのまま雪崩れてしまうような気がしました。

そしてすぐに島のあちこちでテロへの抗議、平和へのアクションが起こり、僕もその渦に捲かれてゆきました。
音楽=平和を強く意識し出したのもこの頃なのだと思います。

Ubud村は内外のアーティストが多く居住する特異な地域で、すぐに大きなピースフェスティバルが企画され、自分は日本人コミュニティーのステージの音楽監督をしていました。
そしてピースフラッグの為に、欧州からの帰りにバリに立ち寄ったBunと出会ったのです。

僕はバイクの後ろに彼を乗せ、そのリハーサルの最中の我が家まで連れて行きました。
何か、背中に暖かくて大きな、未知なる動物がくっついている、そんな感じがしていました。

爆発現場から聖アグン山までのピースフラッグ、その道程で生まれたと云う「ピースウォーク」この曲に籠もっている平和への希求はとてもおおきなもの、と思います。

この曲にギターで寄り添えた、どころか長い時を経て、また演奏できるなんて!

こんな時にさえ、音楽は喜びを与えてくれる。
彼とセッションやライブを重ね、それにぼくの参加していたPlanetBambooというグループでも演奏してして貰い、そのどれもが自然に自然に流れていって、音楽の魔法が作用する一瞬一瞬が巡って。

けれどどんな物語にも終わりはある。
僕たちは其々の暮らしに戻ってゆきました。
ぼくは村の生活に、Bunは東京へと。

そうして更にその翌年。
N.Yでオーガニックフードの大きなイベントがあって、それの音楽を担当して欲しいと、何故かぼくの様な者のところに依頼があったのですね。

すぐに思い浮かべたのはあの暖かい大きな動物、Bunでした。
ふたりで演りたい、そう伝えました。

6月の雨のそぼ降るN.Y
貿易センタービルの在った場所はまだ瓦礫の残る地面でしかなく、隣接していただろうビルが、その面だけ真黒に焼け焦げて、巨大な墓石のように雨に濡れて建っていました。
Bunと僕も濡れながら其処に立ち尽くし、9月11日に戻されて。

そしてそのイベント。

道郎さん、これ。と言ってバリから帰る日に手渡してくれた自作のカリンバ。
いまでは僕の音楽表現の重要な楽器のひとつ。
そのカリンバ、リンディック、ギター。Bunはネイティブアメリカン.フルートとカリンバで、2時間40分ノンストップの演奏でした。

とまれ。

世界の変容は誰にも止めらなかった。そうして、いま、に繋がっている。
そしてそれは、いま、のすべての芸術表現に繋がっているのだと思います。

Photo_2
12月23日@横浜エアジン「音速珈琲廊」

毎年クリスマスには、この古い古い音楽のお堂で演奏させて貰っているのです。
ぼくの知る限り、一番音の良い処。日本一、世界一。自分の小さな世界だけど。

マスターの實さんはぼくにとっては宮司さんみたいなひと。
そうしてこの音の良さは何故なのだろうと考えると、結局件の人生の大命題に近づいてしまう、、

しかし、お堂と云うのはお寺にあるもので、宮司さんは神社の偉い人だ。
だから本当はお堂ではなくて祠、と言うべきなんだけれど、まぁ、それはいいね。うん、お堂、御堂ね。矢張りぴったりだ。
で、宮司さんも矢張りぴったりなので、もうそれで。

Photo

カリンバの音が濡れている。とても美しい光景だ。
冬は乾いた音が出るリンディックでさえ、素敵に湿り気を帯びている。
この古いお堂は水の滴る豊かな森へと続いているのだ。

いつかこの森でBunやちづこちゃんたちと一緒になってみたい、そう言うと、宮司さんはにこにこしながら
「楽しみにしてるから」と仰って下さった。

今年がぼくの裡からそろそろ出てゆこうと準備をしている。
うん、そうだね、悪いことばっかりじゃなかったよ、だから笑って見送るよ。

Photo_3

追伸。

素敵にレトロな一軒家を見つけたんだよ。庭先に大きな松の木が生えているみたいなさ。
うん、少し苦労をしたけどね。

ぼくの通っていた小学校のすぐ近くでさ、やっぱり松だよね、古い家って。1976年に建った家。
来年は此処に引っ越すんだ。家族3人で。
息子の大学がようやく決まってね。本人も苦労をしたし、家族も何だかもやもやと心労の日々だったな。
だから寮生活はお終い。
15歳で家から出したのは、互いにとって早かったかな?と思うことも何度もあったんだけどね、良いことだってたくさんあった。

Mo
落ち着いたらお知らせしますね。
森伊蔵はもう呑んでしまったけれど、何かおいしいお酒を用意しておきますから。

是非一度お寄り下さいませ。
それでは良いお年を。  

michiro-U.

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2016年10月18日 (火)

「 Easyrider物語#最終回 / Ken’s Dial~帰路 」

物語には始まりがある限り、どうしたって終わりがある。
ひとが産まれて、そして死んでゆくように。

だからこの物語にも決まりをつけねばならない、そうは思うのだけど。
こころの決まりはそう簡単につくものではない、と知った。

あれからまだ2週間しか経っていないのか。

あの晩遅く、日付けが4日に変わってからまもなく、けんは完全な自由な世界へとリリースされたんだ。

あの晩のことはやはり書かねばならない、と思う。
そうしてこのEasyrider物語も終わらせねばならぬ、とも。

熊本の日赤病院へ9月8日に転院してから26日間のあいだ、我々は毎晩時間を決めて電話で会話をした。グループ通話という、フェイスブックのメッセンジャー機能を使った自分にはよくわからない仕組みなのだが、同時に何人でもが電話で会話可能なのだ。
明実がそれに「Ken's Dial」と名付けた。
Easyrider、そのロックの絆たち、友人たち、けんの熊本の家族たちが毎晩けんの病室に集った。

毎晩8時半になると、あー、そろそろ Ken's Dial始まるなぁって。
体調が少しでも良いと、けんはいつまでも会話をしたがったし、こちらも酒を呑みながらつきあった。

だがけんは電話の向こう側で少しづつ弱っていった。段々会話の時間が短くなっていった。
10月の1日にはもう囁き声しか出せず、2日の通話は、ちゃんと聞いているよって云う意思表示だけだったと記憶している。
そして3日の最後の通話。
肩呼吸が始まっており、もう聞いているのかどうかもわからない状態になり、我々は其々の裡で覚悟を決めたのだ

と思う。

そして4日へと日付けが変わる頃、最後のKen's Dialが性急に招集され、皆が呼びかけるなか、家族が見守るなか、けんは呼吸を止めた。脈を打つことも。

あぁ、とても疲れた、、
うん、疲れちゃったねぇ、すごく。

家人と少し話をしてから眠った。
その日は二人とも勤務だし、火曜日だから皆もきっと。

突然の別れではなく、時間をたっぷりかけて、ゆっくりと別れたのだ。
こころおきなく別れたのだ。
だから急激な悲しみには襲われない。大丈夫だ。悲しさはきっとゆっくりと訪れる。

翌日からぽつぽつと通夜や家族葬の写真や動画が届く。

ところで自分は職業柄、かつてそのひとであった、いまはそのひとの魂の容れ物でしかない、そういうBodyに触れる機会が多い。
だがそれは、まったくの他人であるからこその感覚なのかもしれない。
写真で見るかつてけんだった身体は、やはりけんのように見えた。

とまれ。

けんの魂は何処かに在り、いまではその身体は消滅している。
けんのことを忘れることはないので、それはやはり魂のホンの一部をけんは自分の裡に残していってくれたのだろうと思う。

F3_2
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自分にとっての2度目のロックの季節(なんて幸せな!)はこれでお終い。
そろそろ自分のやるべき音楽に戻らねばならない。
いや、音楽に限らず、其々が自分の暮らしに戻らねばならない。

だが、この2年間、なんという2年間だったことか。
泣いたり笑ったりの。こんな歳になってさえ!

たくさんのことを知り、そしてそれを永遠に失うための2年間。
だから忘れることなんて出来っこないだろう2年間。

0002

ハートに沁みて来る苦い酒だろ、暫くは。
それでもそれを味わうぜ、構わないからどんどん持って来てくれよ。

10月15日(土)@茨城「ねこ屋」

去年のクリスマス以来の音速珈琲廊のライブ。
色んなことが重なって、自分は癌なんかにもなって、長くライブが出来なかった。

ぼくのライフワークと言ってもいいこのユニットはしかし、消滅を免れた。
ぼくはやはりぼくの音楽の場所へと帰らねばならないのだ。

Ne5

此処で演るのは6年振りだが、何故か自分の歩く道の分岐点の如くの場所にいつもこの店がある。
ぼくは迷わず立ち寄り、音楽を演奏するだけ。
そうしてまた歩き始める。どの方向に進めばいいのかは何故かその時にはもう決まっている。

Ne6

ぼくはまた歩き始めた。

F8

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「Easyrider物語#14 / 広島屋で」

俺は角打ちし乍、けんのことを考えていた。
此処はまぁ、角打ちと言っても、立ち呑みのカウンターがあるわけでもなし、店先に適当にテーブルと椅子を散らしてるようなアレでね。
けれどこのボロ椅子の座り心地が抜群に良い。

家から国立駅までゆっくりあるいて15分。
駅の反対側を真っ直ぐ行くと谷保天神につき当たる。
野暮天さん、いや谷保天さんはでも、学業の神さんなわけで、大学受験真っ最中の息子のお願いに参じた。
財布にあった小銭全部放り込んで。

しかしついそんなことをしてしまったと思った。
此処はメインの神様のほかに、敷地内の雑木林をちょいと上がった処に小さくて地味だけれど、お稲荷様がおわすのね。
少し小銭を取っておけばよかった。こっちではけんのお願いするつもりだったから。

家人のお賽銭に便乗した自分はこころのなかでごにょごにょとお願いの如きを。
神さんの前に行くと、俺はいつだって色鉛筆の箱の中の白、みたいな気分になっちまう。

ところで広島屋は国立へ戻る道すがらにある古い古い団地の中の商店街にある。
酒屋なわけで、店内で買った酒を適当に外で呑んでね、って感じ。適当なつまみ類も色々置いてる。家人は近くの昭和丸出しの肉屋に焼き鳥などを買いに行っていると云う何でもアリのお気に入りの場所。

此処にけんがいたらな、と思う。
きっと向かいにあるパンとかお菓子とか売ってる店やこの店内で、なんだかつまらない菓子みたいなのを皆のためにたくさん買って来て、得意になってるんだろな。
けん、こんなに喰えねーよ、、

そう思ったらなんだか泣けてきた。

60円でちょっといい清酒の試飲が出来る店内に何度も誘ってくれて、かわりにあれやこれやと感想を聞かされるんだろな、、

あぁ、こりゃ駄目だ、涙が止まらないぜ。
家人が戻るまでには止めなくちゃな。
俺は色鉛筆の白になって、じっと堪えなくちゃなんないからな。

もうすぐだ。あと本当にもう少しで、けんは完全に自由な世界へと行ってしまう。
その助走にはしかし恐ろしい程の苦痛がいま伴っていると云う。
もう話を聞くことも、口をきくことも、目を開けることさえもその苦痛の裡に在ると云う。
息をすることさえも!

神さん。
もういいだろ。せめてその苦痛和らげてくれ。そうしてリリースしてあげてくれよ。
恐ろしいほどの自由が果てもなく、前も後ろもなく、上も下もなく、拡がっている場所へと。

其処は寂しくて孤独な場所かも知れない。
だがそう思うのは、この世に在る感覚だろう、想像しても無駄なこと。

白い紙に塗った白色の。
色鉛筆の白。

Iro

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2016年9月13日 (火)

EasyRider物語 #13 / スタジオへと昇る狭い階段を降りながら俺は。

4月の、、28日だったか。
ライブ前の最終リハーサルだったが、最後のバンドリハーサルになってしまった。

自分にとってはその5日後のライブよりも、この晩の印象の方が強い。
スタジオへと昇る狭い階段を降りながら俺はとても悲しかった。これできっと最後なんだろうと。
その感情をいつまでも、これからもずっと憶えているんだろう。
それは。
バンドへの感傷。ロックへの感傷なのかも知れない。

ドラマーのけんは、今は熊本の病院で完全な自由を手にする日を待っている。
あとどのくらいの時間がそれまでに残されているのかはわからない。

奴はもう充分に戦った。激しく、厳しく。望み通りのドラマーとして。
医療従事者たちから見れば、こんなことあり得ない、奇跡みたいなこと。だが3度もやり通した、やり遂げた。
その時のプレイは末期癌であることのハンディなど微塵もなかった。

3度もだぜ、、!

けど。
夏になるとけんは急激に衰えた。
皆が季節の終わりを感じ始めていた。ロックの季節の終りを。
この夏は、事あるごとに皆が集まって盛大に宴をやった。だってそんなの嫌だったから。
そのうちけんはまた入院をしたが、それでも病院を抜け出して、勿論参加したさ。
宴はバンドのメンバーの家をぐるぐると巡って。

だがそういう騒ぎにも翳が射していった、けんは動けなくなっていった。

ならば、と今度は皆が病院へと騒ぎの場所を移した。
それが迷惑にならぬようにと、なんだか高そうな個室にけんは移ってくれた。
熊本への転院が決まった東京での最後の10日間は連日友人が押し寄せた。

ひとが、仲間が一緒にいると元気が湧くのだと、輸血を受けながら笑っているこの男。
こそ、俺たちは付き合った。
嘆き、泣き、天を恨む。そういうことはもう乗り越えている。
こそ、俺たちは再び集まった。

ところで俺は他人の人生の一部を背負いこんでしまった、、
それはこういうことだ。
身辺の整理を少しづつ始めていたけんからある時、こんな依頼があった。

自分のレコード.コレクションを纏めて引き取って欲しい、と。
まぁ、CDは良いのだけれどね、これだけは処分する気になれなくて、と。

そりゃそうだろう。
だってそれは人生の重要な一部だからな。
そしてバンド内でそれが出来るのは自分しかいないってこともわかってる。

自分のレコードコレクションも1000枚程が実家の物入れにある。あるとき2000枚を越えて、もうそういうのが嫌になって半分を処分した。でもいまになってそれを悔やんでいる莫迦、という苦い思いで生きている。

だから今のこの狭い住居では、、と最初躊躇したけれど、結局は受け入れた。
家人もそういうことなら、と快諾してくれた。

何故それが自分にしか出来ぬなどと、かくもおこがましいことが言えるのか?

それはね、そのコレクションにはね、ロックもたくさんあるけれど、古いソウルミュージック、それもフィリーソウルと呼ばれる、コアなソウルファンからは毛嫌いされているやつなんかがかなり入ってるんだ。
それにメインストリームではない、かなりアンダーなレゲエバンドのものも多いはず。
明実や竜はまず聴かないだろう音楽。
だが、その様な音楽でも、自分とけんは好みが重なることがあった。

けんと初めてバンド仲間になった頃、良く音楽の話をした。
互いに、え?こんなの聴くの?こんなの知ってるんだ?じゃああれは?なんて話良くしたな。
レコードも借りたり貸したりしあったな。
まだまだCD前夜の頃だ。

この事に当たって考えた。
もしけんが、これは処分したくはないので、皆ですきなのを何でも持って行ってくれ、としたならば、自分は受けなかったろう。
だがけんはそうせずに、全部を、と言って俺が家に来るのを待っていてくれた。
All or Nothing..
その意味は大きい。

とまれ俺は。

けんの人生の一部、レコード800枚余りと、段ボール4箱分のCDを背負い込んだ。
まだすべてのタイトルを確認していないし、一緒に引き取ったターンテーブル、アンプ、スピーカーもそのままだ。
残念ながらセットする場所がないので、せめて埃にならぬよう、ビニールに包んで置いてある。
我が家は引っ越し前の家みたいになっているが、それも覚悟の上だった。

9月8日(木)羽田空港。

めそめそした別れにはならなかった。
たとえけんが車椅子だったとしてもね。
ドラマーだしな、座位でロックしてる姿が眼に焼きついてるからな、笑ってそうやって座っていても良いんだよ。

Dr1_2

Ha7_2
Ha8_2

さらば、友よ。
夏が終わる。
2年前の秋、9月22日起点の「ことのはじまり」が終わる。
何と云う2年間だったことか。

たくさんのことを知り、そしてそれを永遠に失う為の2年間だったんだと思う。

病院のベッドで、車中で、路上で、曖昧な酩酊の裡で、世界中のあらゆるところで、職場で、夢の中で。
何処かで。

きっと。
何処かで、また会える。

Keep on Rockin' in the Free World !
二ール.ヤングが叫ぶように、祈るように歌ってる。

聴こえるだろ。けん。

Dr2

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2016年7月18日 (月)

ときどきトランス日記 No.75/1000年ハノイで俺は。

B05
18歳のきみたちへ。

きみたちの年代の約半数が選挙に行きませんでした。
でも19歳、20代、30代のひとたちはもっと行きませんでした。

「そういう重いのはちょっと」
「かったるいし」
「よくわかんねーし、別に興味ねえし」

そういう顔の向こう側に。

きみたちはネット世代のど真ん中だし、今回の参議院選挙の結果次第でマジでヤバいことになりそう、っていうのは匂いで感じていたと思います。大人以上に。

けれど、ホントにヤバいことになったら大人がなんとかしてくれる、そう思っていませんでしたか?

でもそれは無理です。

だってきみたちの頼みの綱、大人たちもこう思っているからです。
「きっと誰かが何とかしてくれるよ」

その「誰か」を選ぶための選挙に大人の半数近くの人たちが行っていません。
関心がないからです。きみたちの半数と一緒ですね。

大人たちはこう言います。
「だってテレビでは何にも言ってなかったし」
「新聞にだって」
彼らにはマスコミがすべてなんです。マスコミの言うことがすべて正しいのです。
テレビが神様なんです。テレビがないと生きていけないのです。

だから国はテレビや新聞に、一切のヤバいことを言わないようにさせました。
だからおとなの半数近くが選挙に行かなかったのです。
「あぁ、いつもの選挙ね。まぁ行かなくても大丈夫だよね」と。

そうして、すでに手遅れになってしまったことにも気付いていません。
だってテレビではそんなことひとつも言っていませんから。

無関心はきみたちと一緒だけれど、その理由は少し違いますね。

これがきみたちの頼みの綱の正体です。
おとなの正体です。

そしてぼくもそのうちのひとりなんです。

ぼくにはもうすぐ18歳になる息子がいます。
ぼくは彼に言いたいのです。
どうか、わたしたちのようなおとなにはならないでください、と。

B04B06
アジアの何処の国とも知れぬ古い古い街を、自分と家内は彷徨うていた。
酷い暑さだ。
汗はシャツの分水嶺を遥かに超え、ズボンの腰回りに溜まってゆく。
まったくの、酷い暑さなのだ。

抜けるような青空、ではない。鉛のように輝く蒼空なのだ。
コロニアルだがまるで廃墟のような建物に、絡まるように生えている巨木はしかし、その建物以前から其処に在るのだろう。
見上げる眼にどっと汗が流れ込み、立ちくらむ。

巨木の梢遥か、その遥か上の方から雷(いかづち)の如き大声が降って来る。

「此処は1000年の都ぞ。お前たちは何処へゆくのだ、行き先などないのだぞ」

「では此処が昇龍(タンロン)の都なのですね」

「そうだ。絶望と希望の都ぞ。だがお前は、そのどちらを欲するのか。希望を選ぶのならば、この都から出ることはもう叶わぬ」

「では、絶望を選ぶのならば、、」

「此処から出てゆくがいい、だが言った筈だ、行き先などないと」

天空に在るその声の主は釣り竿を肩にかけた老人で、何処かユーモラスでもあるその貌の向こう側にはしかし、恐ろしいものが漲り宿っている感じがする。

あれは、、
ラヴォン(太公望)だ。
何故自分などのような者に、そのようなことを聞くのかがわからない。
だが、この問答には何か裏があるような気がして来ている。

「いえ、希望が、、」と、もたもたと答えるが、その恐ろしさに竦んだ自分はもうその先が続かない。

兎も角も、酷い暑さなのだ。
思考も視界も、なにもかもが霞んでいる。

自分は両替商で4000円ばかりを胡麻化され、、

その辺りで眼が醒めた。

いや、誤魔化されたのは本当のことだった。昨夜のことだ。
そして1000年の都ハノイで最初の朝を迎えた。

B13

夕べ、少し苦労をして、路上の生ビールにありついた。少しばかりの見当違いで、当たりを付けていたエリアから100メートルもなかったろう。
一杯25円から40円程で飲める店が集まっている。
自分たちは小振りな路上店の小母さんに誘われるままに座り込み、25円也の生ビールを4杯も5杯も飲んだ。
10000円を6000円分のベトナムドンに両替してさ。まったく良い気なもんだ。
自分は莫迦であることは重々承知であるが、旅に出るとわりかし慎重な方なのだ。

なのに。

けど、本当に酷い暑さなんだ。視界も思考も霞むくらいの。
日昼はまだマシなんだ。だが夕方から夜にかけての暑さは、アジアの何処の都市部よりも酷いのさ。本当だぜ。

B02

ホテルはね、張り込んだ。
夫婦となって25年経ったアニヴァーサリーの旅だったんでね。だから快適このうえない。
たったの3泊の旅。
貧乏だったけれど、時間と未来だけはたっぷりあって、安い長旅をした日々は遠い昔日のこと。

B07B08B09

そして今日は参議院選の投票日。
期日前投票を済ませてきた自分たちは明日、ネットで知ることになる。
運命の日だったんだと。
そのことにこの国が気づくのは、しかしもう少し先のことだろう。
蹂躪されて、血塗れで、そしてようやく知るのだろう。

たくさん飲んだビール、暑さ、社会主義国の空気。

B11
あぁ、何を食べても美味しい。
ディル、ドクダミ、コリアンダー、ミント、バジル、シソ、何だかわからない葉っぱたち。
何を食べても、香りの強いこれら葉っぱが、がさりと山盛りでついて来る。
汗を流しながら、むしゃむしゃと山羊のように、牛のように、羊のように、料理と一緒に葉っぱを千切っては喰らう。
酒などいらぬ。ただむしゃむしゃと喰らうのだ。
頭の中が、中枢神経が、何もかもが霞んでゆく。

B12B03

夢の分析を濃いベトナム珈琲で流し込む今朝。
そうして。

1000年ハノイで食い倒れる。

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2016年5月17日 (火)

EasyRider物語 #12 またあの場所へ。

自分は日本一何も持っていないベーシストだった。
なにしろベースを持っていない。いまのは友達に借りているやつ。
だが打楽器奏者としては色々持っている。デジタル.ディレイとかコーラスとかサンプラ―なんかもあるし、ケーブルだってたくさん持っている。
でもね、まさかこんなに早くまたライブやるなんて思ってもいなかったしね。
そういう機材は相棒のショウ君の車内に置きっぱなしで、その車で彼はツアーに出ちゃってるしで。

だからベース以外何にもない。
エフェクターひとつない。
5mのケーブルとチューニングメーターだけはある。

じゃあせめて弦だけでも張り替えますかなって、少しゲージの太いのに替えたらこれが指にしっくりと心地良い。
あぁ、よかったよかった、これで行っちゃえ。

とまれ。

4月の頭にけんの癌は再再発、入院の知らせがあった。
もう全弾打ち尽くし、あとは時間との戦いしかないような状況だと云う。
入院は短期で済みそうだったので、4月の7日にはもうライブが決まっていた。すべてが時間との戦いだからね。叩ける体力の残っている間にやるしかない。

Bsp

ライブは5月3日@渋谷La.mama

某大病院の看護師長曰く。
あの病状でこんなこと、、あり得ない。

まさにこれは、何処かに居るかも知れない神様の計らい、としか思えない。
最後の最後で、最高のドラマーに仕立てやがった。
その煽りで、あろうことかバンドも成長。

だが事はRockだ。末期癌だろうと、何も持っていなかろうだって、Rockの裡では関係なかった。

本番までリハーサルは2回。
吉祥寺StudioPENTA Northside、いつものリハーサル.ルームで。
缶ビール片手にリハーサル出来る素敵な処。アンプの上でひっくり返されちゃかなわんからね、マイクスタンドに缶ビールホルダーが装着されてるのが嬉しい。いや、ジュースだっていいんだけど。

Bi

4月19日(火)1回目リハ―サル。
ん?俺の癌入院にぱらぱらとみんな見舞いに来てくれたけど、それ以来かな?皆に会うの。
あの時はメンバーの半数が癌だったわけで、結局人類の2人に1人は癌になる、ってのに合致してやがんの、なんて落としてたわけでね。

6月に大阪でライブやって、これが殊の外良かった。けんの体調も良いようだった。
我々はすっかり気を良くしていたし、ライブの予定はこの先特にないけれど、秋ぐらいから時々はリハーサルやりたいなんて話も出て来てはいた。
けれど9月に入り、自分は癌の疑いが発生して、やれ検査だ、ポリープの切除だと、ばたばたし始め、12月には癌が確定してしまった。1月に手術して、2月はあっという間に過ぎてって。
気付けばもう桜が散っている頃。
リハーサルどころではなかった。だがその間にけんは段々と弱っていっていたのだ。
明実が会いに行ったときは、もう時間がなさそうだと感じたらしい。

そうして久し振りの再会。

けんは少し小さくなっていた。
てことは剥ぎ取られた体力も相当のもんじゃないのか、とやはり危惧が先に立つ。
ところで自分はなにしろ日本一なわけだから、アンプに直接ケーブル差して、ちょこっとイコライザーいじって準備終わり。缶ビールを飲みながら皆を待った。

いやしかし、と云うべきか、ともかくも。
神様の計らいは相当のものだった。
リズムのBPMは以前の感じよりもやや落ちていてるが、なにしろ叩くパワーに微塵も衰えがない。すげーな、これ。
けん、もうちょっと早く、ってなリクエストしても、いつの間にかもとに戻ってて、しかもそこで安定している。
つまりはこの早さが現在のけんの身体的なスピード感覚なのだろう。
だからこの身体生理スピードに全員が乗ると、ちゃんとグル―ヴが湧くわけで、これがいまのEasyRiderの「早さ」と言って良いだろう。

だが曲間では虫の息、、それを見るのも辛いものだが、次の曲が始まると、また不屈の男になって帰って来る。
奇跡みたいなことに立ち会える、どころか参加、いや共闘?これはおこがましいか、、ともかくもそういう場に居ることをまた自分は噛みしめている。

0002
問題全然ありません。皆がご機嫌になった。さあ、ワインで乾杯しようぜってんで、いつもの居酒屋へGo。

4月28日(木)2回目にして最終リハーサル。

自分は徹夜で労働して、少しの睡眠の後、家を出た。だが、ライブ決定後から結構真面目に家で練習を重ねたので、足許やや怪しかろうが大丈夫。
よろよろとリハーサル.ルームによろけ込むと、しかしメンバー皆もなんだかへとへとな様子だ。日々色々そりゃあ色々あるだろうて。疲れぬ人生などない。
だが不屈の男の「早さ」に乗るだけで良いのだから、これは出来る。
自信とプライドを知れ、各々がたよ。いや、世界よ。

しかしこういうときのビールはホントに有り難い。短時間ながらもしゃきっと出来るからね。でも2本までだな、それ以上いくと効果が逆になるかも。
昔はスタジオ内で飲食など以ての外だったけれど、此処だけがユルいのか、そういう時代なったのかはわからないけど、実に心地良い。フロントでベルギービールが100円で買えるんだからな。

ライブ前の単なる最終リハーサル、だがもしかしたらこれが本当の最終リハーサルだったのかも知れないと思い、スタジオの狭い階段で、俺は凄く悲しかった。

ライブへの豊富など語りつつワインをたくさん飲んだようだが、終わりの方は眠ってしまっていた。

5月3日(火)@渋谷La.mama
おぉ、今日は憲法記念日なのかって、驚くでもなく驚くと、もう本番。
しかし早朝に、大阪から援護射撃に出張ってくれるAsh(現Janks)の車が東名でお釈迦の連絡あり。
オマイガー。
神様大急ぎでこっちも計らってー、ってお願いしたら、レッカー車とレンタカーゲット。
どのバンドよりも早くLa.mamaに到着してる。
流石に悪名高き岸和田~泉佐野辺りのひとたち、渋谷の雑踏のなかで次元の違う柄の悪さが超素敵。
んで自分はけんの車でおっとり到着。

ベースいっぽんぶら下げて、ゆらりゆらの介。ケーブル一本アンプに直差して、と云うイメージ通りにリハーサル開始。
んー、ちゃんとイイ音出てるしな。ぎっしりしたエフェクター.ボード持ってるAshのタカシも「梅ちゃんはそれでええんちゃう?」と言ってくれたし。

この箱はその昔、何度も演っている。ブッキングで奔走してくれた植田がお店の資料から探してくれた。最後に此処に出たのが1986年9月19日。30年も前のこと。
このちっとも変ってないステージに30年前に自分は立っていたんだ、、

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あ、本番ですか?
そりゃあもう最高でしたよ。
ビールとワイン、どちらにしようかと迷ったけれど、結局ワイン飲みながら演った。
いや、そういうことじゃなくて?

うん。

わかってる。

奇跡ってあるんだな、ってことかな。
目の前で見て来たからね、それだけは言える。

4度の奇跡が起こるのかはわかりません。
自分たちとは多分関係のないところでの、大きな「何か」の計らいのようなものの裡にEasyRiderはいるみたいです。
それをコントロールすることなど出来る筈もなく。
だから、その恩恵を受けるために、今の生活を悔い改めるとか、ひととして真面目に清らかに生きるとかはしません。

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ステージの終わり近くはAshも山崎銀次バンドも入り乱れて、下品で野蛮な空間、自分が最も心安らぐあの場所へと連れて行かれました。

たくさんの人たちがあの場所へと連れて行ってくれました。

ただただの、感謝を。

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夕べ。
日付けでいうと、5月16日(月)の夜。
とうとう引っ越しした明実の新しい住処で、打ち上げ兼スタッフ慰労会兼高倉健二誕生日会などのぎっしり感の宴あり。
まぁ、ライブのDVD観ながら豪勢に呑み喰いしようではないか、という集いなので、映像も豪勢。ステージの上手下手それぞれと、センターからが2種類。1回のライブで4種類のライブ映像があるのね。

そしてここからが肝心要。
不屈の男は4度の奇跡を起こすため「俺は明日からちょっと入院してくるぜ」と。
自分などの想像を遥かに凌駕したきつい治療が再び。
飯屋が再び。いや、これはけんの好きなRoyBuchananの曲だが。

「俺はこんだけロックやれてるし、ちっとも可哀想じゃないぜ。でもそうだな、それ以外じゃ、もういっぺん桜を観たかったな」

ならば付き合うぜ。

先進医療のドクターだって知らない世界で付き合うぜ。

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2016年2月 2日 (火)

ときどきトランス日記 No.74 / 20センチ足りない、あぁ、切って捨てたんだよ。

2016年1月19日(火)入院。1月21日(木)8時45分~S状結腸癌切除手術。

5時間が経過していた。
眠った、という感じは微塵もなくて、1秒前に目を閉じて、1秒後に開けたら終わっていた。時間の経過感がない。眠った記憶がない。
でも覚醒の瞬間には恐ろしい苦痛が伴った。
身体の奥深い所から、底の方から喉にせり上がって来たのは唸り声。
安らかに死んでいたところを、ぐいっと無理やりに引っ張られ、現世に呼び戻された感じがする。
実際に全身麻酔と云うのは、自発的な呼吸が不可能なので、気管へ人工呼吸器を挿入して息を繋ぐ訳なので、半分死んでいるようなものなのかも知れない。

生と云う現世の苦しみをもう一度背負い直す苦しみ。
抽象的な苦しみはでも、正体が知れないので恐ろしい。

自分はそのままもう一度気絶し、数時間後に痛みで完全に覚醒した。
回復室と云う部屋に寝かされており、此処で一晩を過ごさねばならない。
8時45分に開始された手術だが、ベッドはカーテンで囲われており今の時刻は見当もつかない。
身体を少し動かしただけで下腹部に物凄い激痛。
ドクターは孔、と言っていた傷口は5箇所。
うち、4箇所を頂点として線で結ぶと、横長の長方形になる。上辺の真ん中にお臍。
そして5番目の傷はお臍のすぐ下。
ともかく、この長方形内が激痛のフィールドとなっている。

自分の手術は下腹部に5個の孔を開け、そこからカメラやらメスやら縫合機を入れて、モニター画面上ですべてが執り行われると云う、自分の感覚では近未来的な感じのするものだった。

腹筋に連なるどんな箇所も、痛みが恐ろしくて動かすことが出来ぬが、手首、足首より先だけは自由に動せる。だから出来るのはじゃんけんだけ、という情けない状態。

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痛い痛い。でも少しでも良いから身体を動かしたい。同じ姿勢でいるのはもっと辛い。
自分はもともと側臥位でないと眠れないタチであるので、この姿勢は苦痛。寝返りの欲求に耐えられるのか、不安が大きい。
結局は、激痛とその苦しい欲求を秤にかけての行動となる。
だがいまは矢張り激痛が有利であり、動きたい欲求は劣勢にある。けれどそうであるばあるほど欲求はその苦しさからどんどん増大する。果てしなくせめぎ合う。

ところで、股の間の先っぽに違和感があるので触ってみたら、導尿用のチューブが挿しこまれている。
そういえばそう云う説明を受けていた。挿入は仮死状態の時だから良かったなぁ。考えるだに恐ろしい。
身体の左右がごたごたと絡まっている。
左腕に点滴のチューヴ。
長方形左下の孔からドレーンチューヴ。これはお腹の奥深く、腸の縫合部分まで挿しこまれている。
背中下方に局部麻酔用に繋いだチューブを使い痛み止めが流されている。
右腕には自動で血圧を測る為ベルトが巻かれ、定時にぎゅうぎゅうと締め付けて来る。
左の人差し指には血中酸素濃度を測るクリップが挟まっていてコードが何処かへ伸びている。

苦しい夜。
覚醒時のあの恐ろしい感覚が何度も戻って来る。
理由がないから解決法もない。出口がない。
子供の頃に熱を出すと必ずやって来た、お馴染みの悪夢と混ざっているので、発熱して苦しいなりに、でも時々は眠ったのかも知れない。
痛みを堪えカーテンを少しずらすと、壁の時計が見える。けれど、距離もあり角度も悪く、はっきりと読み取れない。
恐ろしい事に何度見ても同じ場所に針があるように思える。

向かいのカーテンの向こうには、自分よりも酷い状態の患者が寝ている気配がする。
医療用モニターからの発信音なのか、鶏の鳴き声を旧式のシンセサイザーで合成したようなチープなシグナル音がうるさい。気になる。
60秒位に1回必ず鳴る。この間隔を測って、それで時間の経過がわかるな、と考えるが、そのこと自体で気が変になりそうで実行しない。固執は発狂の前兆。この狭間で溺れもがいている。

とまれ。

この世で一番弱い生物と成り果てて初めて、ようやくひとは自分と向き合う。
恐ろしく莫迦で高慢。
それが自分でした。

想像力がないから他人の痛みをわかろうとする気持ちがない。
自我の肥大増大をポジティブに捉えて成長だと勘違いする。
最優先するのはいつだって自分。こころのブレーキパッドはいつの頃からか擦り減り過ぎて、もう効きはしない。
でもそういう人間性0メートル地帯でしか安らげない俺。
でもでも、どうか許して下さい。もうしません。もうしませんからこれを終わらせてくださいと、莫迦が祈る。

こころの痛み。身体の痛み。恐ろしい夢。罪と罰。満たされぬ狂おしいほど強い欲求。
脊髄へ流し込む痛み止めなどちっとも追いつかない。熱が上がり下がる。
逃げ場は何処にも見当たらず、これは本当に気が狂うのではないかと思った。

夜明けを渇望している。
だが、明日は此処から自分のベッドまで歩いて帰るのだと云う。
この痛みを考えるだに恐ろしいことだが、それでもそれが待ち遠しい。時間の経過、動き、変化への欲求はもう破裂寸前だから。
だが時計の針は遅々として進まない、、

翌朝。

キャスターのついた点滴のスタンドにぶら下がるようにして、病室へ戻る。
起居動作の痛みは物凄く、喰いしばった歯の間から声が漏れる。
何のアクセントもない1日、動きの欲求との折り合いをつけるだけの長い長い1日が続く。

3日間の絶食後、食事も開始されて、一本一本と日ごとにチューヴも抜かれていくのが嬉しい。ちょっとづつ自由を獲得してゆくのだ。
動きは、その痛みの最大値の予想がつく様になって来ていたので、痛いが構わず動いた。
ストレスが随分と軽減した。
術後8日目に点滴用にキープしてあったルートを抜き、これで全てのチューヴが撤去された。爽快だ。

咳やくしゃみが出やしないかと、びくびくしながら眠れぬ夜を過ごすこともあったし、9階の病室の窓は大きくて、そこから見渡す東京の大屋根の、その夜明けの美しさに息を呑んだ朝もありました。

Mado
眼下の街に朝陽が射しはじめると、背の高い建物から光ってゆく。太陽の方向を向いた面だけが光ってゆく。建物の後ろや足許はまだ薄闇のなか。陽が昇るにつれ、足許の民家たちにも陽が射して、同じように光ってゆく。
どの建物も太陽に向かってぐるりと建てられているように見える。
太陽を中心にぐるりと街は広がっている。宗教画の様でもある。太陽神RA。
けれど、陽が昇り切ってしまうと、その建物たちはまたてんでばらばらな方向に、いつの間にか戻っている。
そういう朝を毎日ぼくは眺めていた。

とまれ。

そうして自分の大腸はひとよりも20センチ程短くなりました。
そうして自分の莫迦や高慢さも、やっぱり20センチ短くなって。

何れ。
そう、何れ、すっかりもと通りになってしまうにしても、切って捨てたこの20センチを忘れずに生きて行く。
この20センチにぎっしり詰まったものを。

Kusu
去年の年末。
クリスマスの音速のライブには随分たくさんの友人が来てくれた。
遠くの街から、南から、近くの街から。
皆、この事情を知っている人たちばかりで、敢えてその話題は出さずとも、おおきな励みになった。
横浜エアジン。
古い古い音楽のお堂。大切な場所である。
巡礼、遍路のような気持ちで入り、出てゆく処。

12月23日 @横浜エアジン

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お正月は暮れから帰省している息子と三人で。
手術後は暫く呑めなくなるのだからと、奮発して購入した美味しいお酒に美味しい料理をたくさん頂いた。
入院日が決定した頃に、友人カップルが彼らの自宅で壮行会の如きを催してくれた。
初めて伺う家だったが、丁寧に暮らしているな、と感じた。これは見習いたいなと思った。
ふんだんに用意されたお酒、食べ物、音楽。
彼らの行き届いた気持ちが部屋の隅々まで満ちている。素敵な暮らしの柄を見せて貰った。
楽器を持ち寄りお酒を飲みながらのセッションで夜が更けてゆく、なんて久し振りなこと!

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1月17日大雪。
1月18日 仕事から戻り、駐車場の雪かきをする。
1月19日 一番大きなリュックに荷物を詰め、歩いて病院へ。雪は路上にたくさん残っているので、服装も足許もアウトドア風で固めて、これから入院するひとにはまるで見えないだろう。

病室に案内されて嬉しかったのは、4人部屋だが各自の占有スペースが広いこと、思っていたよりも。この部屋の大きさだったら無理すれば6床は入りそうだが、そうせずにゆったりとした間取りだ。
ベッドは窓際。その窓も大きくて見晴らしが凄く良い。遠くに副都心やスカイツリーも見える。

此処は9階だけれど、普通の住居用の建物なら11~12階くらいの高さで、そういう景色が寝たまま見渡せる。
手術は明後日だから、手術など受けたことのない何も知らない自分は、2日間たっぷりと呑気に過ごせるな、と思った。
そして、術後の状態など何も想像していなかった。

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2015年12月11日 (金)

ときどきトランス日記 No.73 / 藍染の癌だけが残った話とガリバー旅行記。

12月4日(金)7時過ぎに目が覚めてみると、カーテンが陽の光で膨らんでいる。カーテンの外側は光で漲っているのがわかる。
外は色彩に満ちているのが観なくてもわかるような朝に。
さぁ、今日から俺は癌患者になったんだ、と思った。

Hik
いや、本当は昨日の16時過ぎくらいに告知されたんだけれど、昨日は実に寒々しい天気だった。
暗くて終日冷たい風が吹いて、そういう告知に相応しいような日。
色彩の感知なんてすっかり忘れ果ててぼくは。
覚悟が出来ていたことだったので、お腹も空いていたし、さっさと帰って暖まりたかった。
呑んでしまえば混ざるから。またゆるゆると色も感覚も戻って来るから。

先月。

11月11日(水)
大腸ポリープ切除手術。
あぁ、これ、この一番小さい奴、多分これ癌化してるな、とドクターに言われてしまった。
でも死ぬとかそういうアレじゃないんで、そんな大変なのじゃなくて、などとするりと言われてしまったものだから、衝撃も何もなく、するりと入って来た。
話が違うじゃないかとも思ったが、あぁ、セカンドオピニオンみたいなことになったのか、と得心した。
生体検査に出すから、兎も角も結果は来月3日だとも。

ところでインディゴ染めの服が好きである。
自分には少々高価なものであるけれど、数枚は持っている。ジーンズだってリーヴァイスの古いの大事にしている。
目印に刺青しときました、とドクターは言う。
世の中には色んな藍染があるけれど、癌の瘡部に藍でナチュラルダイ。

ポリープ2個は切除され、藍に染まった癌だけが残った。

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これから一週間、自宅でおとなしく暮さねばならない。
禁アルコールはもちろん、饂飩とお粥ばかりの日々だ。
5日目の夜、この世の終わりかと思う程の大出血があった。あるかもしれぬと言われていたけれど、これには青くなった。
何の沙汰もなかったので、もう大丈夫なのだろうと思って食事を通常に戻すペースをナメていたのかも知れない。

その前日、家人と散歩に出かけた。土曜日。
小雨だったのでどうしようかと思ったのだけれど、思い切って出掛けた。家に居るばかりでは身体も心も疲弊するから。
立川までのお気に入りのルートを歩く。
途中の障害者施設でバザーが開かれていて、こういうバザーとかフリマみたいなのは二人とも素通りできないタチ。
テント内の古書のコーナーが充実している。
家人はこういうとき、迷わずぽいぽいと抜いては手に重ねてゆく。自分は、お、と思っても、まずは一周してから取りに戻るタイプ。これで先を越されたことは何度もあるけれど、やはりそうしてしまう。

しかし文庫本のところでふいと目が留まった。
「ガリバー旅行記」
まさかと思ったがやはりそうで、とっくの昔に絶版になっている旺文社のやつ。
翻訳者は父である。
自分はこれを持っておらず、常に探している訳ではないが、古書店で見かけると一応確かめていた。
こんなところで出会うとは。

訳者紹介を見ると、他にDH.ロレンスの短編集も訳しているらしいが、これは知らなかった。
子供の頃の父は子供たちと距離を置いていた。でも今考えると、幼少の頃に父親を失くしている彼はきっと子供との接し方がわからなかったのだろうと思う。
食事以外の時間は書斎に籠もっていたので、何をしている人なのかわからないようなところがあった。
自分は成長につれ父に反発するようになり会話も大してないから、彼の仕事についてはあまり知らない。

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でも何か、こういうメランコリーが気持ち良いような日に昔の父に出会ったよ。

立川のIKEAは巨大で楽しい。
すぐに必要ではないけれど、安価で色やデザインが綺麗なものをいくつか買った。
上のこれまた巨大なホーカ―スみたいなレストランが好きで、スウェーデン料理の甘いジャムをつけて食べるミートボールや固いパンを食べた。
軟食からの移行だったので、お腹にうまく収まるか心配だったけれど、その晩も翌朝も大丈夫だった。

日曜日。また家人と散歩。
いつもとは違う初めての道を使ってかなりの遠回りをして国立の外れまで。一度入りたいと予ねてから思っていた中華料理店に入った。
マレィの都市部のカキ.リマと呼ばれる回廊式の軒廊の四つ角にある、こういうお店。オープンエアで外の歩道までイスやテーブルがはみ出している。コピティアムと言う。
それに雰囲気が近くてね、嬉しくて餃子と麺を食べた。少し自信が出てきていたし。

それが。

翌日慌てて止血処置を受けて、お陰で禁酒期間が5日ほど延長してがっかり。

多分癌化していると言われているし、出血も酷かった。多分そうなのだろうと思って12月3日を迎え、そして確定した。
だから取らないといけないので(詳しく云うと、ガイドラインの安全値の2倍以上の深さまで根を張っているので他に転移しないように、その部位をリンパ節からはずす)手術&入院が来年1月にある。
病名は初期S字結腸癌。

確定さえしてしまえば、あとは覚悟を決めるだけだからシンプルな分、楽になった。
~かもしれない、という状態はやはり辛い。前回にもたっぷり味わった。
これが、どっちでもイイや、ならば良いけれど、出来ることなら回避したい、とか奇跡待ち、みたいに片側に希望の重量が偏ってしまっていると、真っ直ぐ歩けない。

だからお酒を呑みながら好きなことに打ち込もうと思った。

自分にとっては家族のような友人が、かつて長きに渡って暮らしたことのあるUbud村にカフェをオープンする。
ついてはお店でかけるBGMを選んで欲しい、との依頼があった。
店舗デザインのsunaも珈琲担当のkotetsuもまさに自分のファミリー。
ふたつ返事で了解した自分は早速焼酎の美味しいのを買い込み、お湯にそれを注ぎホットなドリンクを作って考えた。
返事をした当初はスムースジャズが良いんじゃない、程度の考えだったが、やはりそれは違うと思った。
単に其処に流れてしまうとお店としての芯、みたいなものが失われてしまう。
ただスムースジャズは決して間違いではなく、あとは直感に頼るのみ。

建築中の店舗の写真が届く。
あぁ、これは、、
sunaのこのところの店舗デザインの傾向の延長線上にあるなと思った。
メランコリックで頽廃的。停車場にあるキャフェーで列車を待つ。男と女。背徳が匂う。
刃物を呑んだ、新聞売りに身をやつした男が油断のならぬ目を光らせている。

でもこの色にどっぷり合わせてしまう音楽は避けた方がよかろうと思う。
少しずらす、外す方が賢明だと思った。
ジャンゴ.ラインハルトやステファン.グラッぺリは回避しようと思う。だってこれは映画ではないからね。けれど、旅の中途にいるお客さんも多いだろうから、此処で更にその旅が先へと続く様にしたい。
旅の中途で更に別の旅へ。

自分は良く良く考えた。
で、最初のスムースジャズからの連想でピンと来た。
SteelyDanかな、と思った。
米国のロックバンドだが、ある時期からジャズ色が濃くなり、N.Y的無国籍化に深い味わいがある。
次に繋がったのはRayBryantの「SlowFreight」のB面。それから幾枚ものアルバムが繋がって出て来た。
でもどれもアナログ盤ばかりで、送るのは無理。

ところで、爆買いが流行っているという。
ピンと来たことの発端はこう。
旧い友人のギタリストがFBに「急にSteelyDanが聴きたくなって纏めてオトナ買いしました」なんてジャケ写真の投稿してて。そうすると自分はもう猛烈に「うそつきケイティ」が聴きたくなり、AjaやPegもたまらなく聴きたくなって。
たまらずAmazonサイトにすっ飛んだ。馳せ参じた。駆け込んだ。

Su
そしたら見つけてしまった、、
「SlowFreight」2990円。
とうとう買った。
CD化されてて、でもそれもとっくに廃盤、なんてことも全然知らなくて。
気付いて慌てて買おうとしたらば、もう値段は5000円6000円みたいなことになってて。
これは一生手許にあるべき音楽なのだから、アナログ盤でもCDでも持っていなくちゃいけない。
RayBryantの異色作。B面(CDだと4曲目から)の美しさは筆舌に尽くす。
17歳の自分はこのB面を聴くために高校をサボり、吉祥寺のジャズ喫茶moreに何度も行った。開店したばかりのがらがらの午前中。
珈琲を淹れる香りと音楽。紫煙。独りぼっちの楽しさを覚えたのもきっとこの頃。
午後の授業は適当に、帰りはまた吉祥寺。今度は仲間と。行先はロック喫茶「赤毛とそばかす」JBLのばかでかいスピーカーからの爆音のロックミュージックに耽溺できる素敵な場所。
他の高校のロック好きのダチたちと合流したりして、それは楽しい青春時代を送ったのだった。

しかしこの名盤は当時としても希少だったのだと思う。置いているジャズ喫茶は限られていたし、何処かのお店でリクエストしたら「そんなのあるわけないだろ!」と怒られたことすらあった。
中古レコード店巡りが趣味みたいになってから数年後。荻窪の「月光社」で、でもとうとう巡り合った。値段も750円とか950円だったと思う。
この店は老兄弟(と、当時は思っていたが今思うとふたりとも60代くらいだったかも)が経営していて、その日は弟の方が店番していた。
自分は震えながらその盤を帳場へ持っていったのだと思う。

ところで、いや、もう待てない。これ以上待つことは危険だと思った。迷わず自分はクリックした。

待つこと数日。
「SlowFreight」「うそつきケイティ」「Aja」が別々の日に送られてきた。こっそり郵便受けに入っている。毎日入っている。
その姿が非常に嬉しい。
RayBryantのはもう自分の血肉になっているから、所有出来たことの安堵感が大きい。で、SteelyDanも実はそうだったみたいで、今度は「トルコ帽もないのに」とか「ハイチ式離婚」とか「リキの電話番号」が凄く聴きたくなってくる。

ここで火がついてしまった。
さっそく自分はAmazonに乗り込み「Royal Scam」「Pretzel Logic」「Gaucho」さらに初期のベスト盤まで注文した。
爆買いだ。もういいんだ、もうオトナなんだから買ったっていいんだ。
更に自分は欲しいなと思っていたSachal Studios Orchstraを狂ったようにクリックし、返す刀で「ギター殺人者の凱旋」やらPiereBarouhやPoguesやJoeSampleなどを押しまくったの。もう返り血で自分はずぶ濡れなんだよ。

Ba
長くてぐらぐらした18日間、そうやって自分は過ごした。
ポリープ切除時に10日程休んでいるので、職場に復帰後、体調などを訊ねられる度に、もう大丈夫ですと嘘を吐くのが嫌だった。
入院時期が決まるまでそれはまだ続く。

とまれ。

このような晴天の冬の朝。
自分は癌患者としての一歩を踏み出した。

Bi

生きている間がすべて。
死後の世界云々はホントにどうでもいいことなんだと、最近思うようになりました。
ひとは生きるために生きているんだから。生きるために産まれてきたんだから。
不自由で不公平で理不尽。こそ、生きているってことかな、って。
で、死んだらそこから完全に自由になれる。
死んだら怖いくらいの自由が果てもなく広がっているのかも知れない。
上も下もない。右も左もない。前も後ろもない。権力もお金もないから、そこから産まれ育つ怪物もいない。
恐ろしいくらいに制約がない。
あぁ、生きているってことは制約があったからこそなんだと、その時気付くのかも知れない。
だから死後を想像する事には意味がない。

今回は別に死ぬわけではないけれど、でもそういう事がとうとう自分に近寄って来ているのか、と思う。

大切に思っていて、最大限のリスペクトをさせて貰っているミュージシャンがいて、先頃彼女の夫がバリで亡くなりました。癌でした。その最期の時まで素晴らしいアーティストであり続けたことは言うまでもなく彼女から伝わってきた。
あぁ、JasonMonetも、、
素晴らしいアーティストだったひと。彼も癌で近年逝ってしまった。
お気に入りの場所の風景画も随分描いたけれど、肖像画の凄みといったらなかった。ひと、の内面が露わに出ている。彼の前では隠しようがなかったのだと思う。
ぼくもそうだった。剥き出しの時分と向き合うようだった。僕の知るひとたちの画もそうだった。隠しようのない真実が見えるようだった。
ぼくの音楽を好きでいてくれて、ライブは欠かさず聴きに来てくれた。PlanetBambooやDuoTones。
そうして彼とお酒を呑むのが大好きでした。

旧友のドラマーは最悪の癌と戦っています。現役のドラマーであり続けるために。
家族のように思っている友人カップルの最愛の息子も小さいながら癌と戦っている。生きるために。
自分の家族にも認知症と癌と戦っているものがいる。

でも。

戦いを終えて自由になった魂も、戦いのさなかの友も家族も、生きるために生きて来た、いる。
この戦いには勝つ、負けるというのがない、そういう意味が消えていると思う。
だから戦い、とは違うのかも知れない。

戦い、と言ってしまえばその勝ち負けには、どうしても利権が発生してしまう。この世の100%がそれによって運航されているから。

でもこのことは、そうではない。

Sora01

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2015年10月19日 (月)

ときどきトランス日記 No.72 / 待合室で俺は。

9月17日(木)
夕べから降り続いている雨。夜通しの勤務を9時半に終えて自宅に戻り、簡単に着替えてすぐに家を出た。
今日は肌寒くてびしょびしょした一日になるらしい。

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国分寺市のTクリニックはしかし絶望的に混んでいた。
自分はひたすら待っている。午後にも行かねばならないところがある。
仕事がなければ開院時間前に着いて、こんなに待たずに済んでいた筈。濡れた衣服の裡の身体は居心地の悪さに震えている。

此処に来るのは今日で3回目。
1回目は2回目のための説明を受けて準備の品々を貰ったりしただけ。
そして2回目の9月7日。大腸の内視鏡検査を受ける。
健康診断や市の癌検診なんかで要精密検査と3回も言われてしまっている。20年前に初めて言われた。2回目に言われたのが2年位前で、次が今年の4月。
それでも、そのうちそのうち、と暮らしの襞の奥の方へと追いやってそこは見ないようにしていた。
しかし周りの状況がそういう小心者を強く押した。それでやっと向き合う気持ちになれた。

人体っていうのはひょろひょろと手足が伸びてはいるけれど、入り口と出口のあるただの一本の管だった。そこから色々派生しているけれど、結局管で賄われている。管が完全に空っぽになってみてそう思った。
夕べ就寝前に飲んだ下剤と起床してから飲み続けた2ℓの下剤で身の裡は完全に空の一本の管。口から肛門まで、もう水がそのまま通過するだけの。

ベッド横に大きなモニター画面があって、そういう我が身の裡を初めて観た。
ひとは体内に海を宿していると云われるけれど、本当にそうだった。
まずカメラは海底の海藻の林の如き場所を一瞬潜る。しかしそれは自分の肛門付近の陰毛なのだった。だからまだ入水前の筈なのだが、まるで海中の映像みたいに見えた。
そしてすぐに海中洞窟のような大腸内に到達。
カメラはうねうねと泳いで腫瘍を次々に発見してゆく。
洞窟内壁に成形された不気味な鍾乳石。内視鏡のメスでそれらを切除して、それでお終いだと自分は思っていた。大腸ポリープなどはそんなのでカタが付くと思っていた。そして確かに内視鏡その様な動きをしていたように思ったのだけれど、何か物足りない感じがする。
カメラはゆっくりと引き返し、また海藻の林をするりと潜り、僕の体内から出て行った。

ドクターの説明。
ポリープは3個あって、内ふたつが大きい、うちでは手を出せないので他を紹介するから、と。何かただ事ではない感じで嫌だなと思っていたら案の定。
ポリープは癌化している可能性があるので、生体検査の為に先ほど細胞を採取した、と。さっきのはそれだったのか。
紹介先は東京都癌検診センター、とも。
目の前が暗くなる、とはこのことだ。

10日後に検査結果が出るので、結果と紹介状持って午後に癌センターに行くようにとの指示。

辛い10日間だったな。
やはりどうしても悪い結果の方を考えてしまう。
この先の人生や生活、家族のこと、詰めれば金銭のこと、どん詰まりの先行き。そして世の中も安保関連法案の悪企みがすでにおおっぴらに加速し始めていた。
もうこれで何もかもが駄目になる、、そう思ったりもした。
苦労してせっかく着地した足許から人生がまた雪崩れてゆく、、

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雨足は強く、少しでも早くクリニックに着きたかったので車で行った。20分程の道のりだけれど、窓の外に見えるもの全てに、良い予兆を感じようとしている。
踏切や信号機、歩行者の傘、店舗の看板。ワイパーの動きにすら。
少し離れているが、確実に駐車出来るだろうスーパー併設のパーキングに入り、濡れながら急ぎ足でクリニックに向かう。

待合室ではちっとも自分の番が来ず、むしろ悪い結果を待ち望んでいるかのような錯覚を起こしていた。
徹夜明けの頭の中。
はっきりとした眠りではないが、極々浅い一瞬の睡眠状態は何度もやって来た。顔のはっきりしない白衣のドクターが、これはかなり進行していますね、とぼくに告げる。夢のような幻のような刹那の絶望感。

だが。

自分は命拾いした。
脳内身体内のテンションは一気にゼロに落ちたが、自分は顔色一つ変えずに結果を聞いたと思う。徹夜明けの状態と言うのは、まるで人形のようになっていて感情が出にくいが、一旦出てしまうと極端に出てしまう。しかし前者で良かった。
そうして午後からの癌センターは、悪性ではなかった腫瘍の切除の為の打ち合わせに行く用事になった。

一旦自宅へ戻り、暖かい饂飩を食べて茫然となった。
癌センターは車で15分もかからないだろう。1時間ほど眠れるが横になってもちっとも眠れやしなかった。

癌で闘病中の旧友がいる。
昔のバンド仲間で、病に倒れるまでドラムを叩き続けていた男だ。いや、倒れてもなお。
しかし入院中はさぞや音楽に不自由するのではないかと思い、彼の好きな昔のロックやなんかを、せっせとmp3に変換してはSDカードに詰め込んでいた。
あの辛い10日間、それがあろうことか自分の励みになっていた。

しかし改めて思うのは60年代から70年代のロックの独創的なことだ。色々聴き直してみると凄くわかる。以降の音楽はそれの焼き直しに過ぎないことが良く解る。
先駆者というのはやはり凄い。中学生の頃に受けた衝撃はいまもなお残っている。
それで思うのは、やはりロックはもう死んでしまったのだろうか、と云うことだ。
安保関連法案への抵抗の場面にちっともロックが出てこないのは自分にとっては解せないことなんだ。デモはあってもそこにちっともロックが顔を見せない。
昔の安保反対集会は反体制の音楽であったロックミュージックと密接に結びついていたように思う。

餓鬼の頃に観た日比谷野音の頭脳警察のステージは凄かったぜ。

抵抗の拠点として音楽が、いや、のみならずアートというものが生きていた時代があった、確かに。
先の赤瀬川原平の回顧展を思い出す。特に千葉美術館のは、そう云う時代の遺骸を直に確認出来る最後のチャンスだったように思う。

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ただ、この「抵抗」って云うのは、なにも政治的なことに限ったわけではない。それは単なる一部分。
政治、体制だったり、親とか学校とか教育、邪気や無邪気、本来在るもの、生まれつき自身に備わっていたもの。存在感と不在感。
「抵抗」って云うのはひとの生き方の根幹、と思う。
「抵抗」がなければひとは成長できないし、自分自身のことで言えば、その抵抗の拠点としてロックミュージックがあったんだと思うし、まだそれは続いている。

けど。
もう反体制の音楽は死んでしまった。そういうことなのだろうと思う。
似ている。やっぱりあの時代に。
フォークミュージックというものは、民衆の音楽だ。本来は。この国にも良質のフォークミュージックというものがあった。
60年安保の時代に。産まれるべくして産まれた運命の子供たちだったと思う。
自分は小学生の頃なんだけれど、通っていた絵画教室でその匂いを嗅いでいた。美術大学の学生の発散する時代の匂いと云うか。

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そして時代は体制に挫折した。フォークミュージックは死に、アンリアルな恋愛を歌うニューミュージックが世を繋いでいった。
そのアンリアルさは、そのあり得なさ故に惨めで貧乏な時代の憧れに転化されていった。
日本の米国化に拍車がかかり、自分も見事に流されて、そのことに浮かれていた。

そういうことが今また、繰り返されているのかも知れない。

演奏や作曲、アレンジの技術はこのところの我が国のバンドには目を見張る思いがする。それは確かなのだが、自分の感じ続けているロックの核の部分がすっぽりと無い。無い、のだ。
デモに参加する若者も、カラオケに行けばこういうバンドの曲を歌うのだろうと思う。デモに行った感覚とそれらは混じり合って次の時代に連なってゆく。
そうなったら良いなと思う。
強行採決への怒りは鎮まりようもなく、自分もそれは彼らと一緒だから。

時代が悪くなればなるほど、ホンモノの芸術は息を吹き返す。その輝きを増してゆくものだ。
内圧は高まり、いずれ爆発的に生まれいずるものたち。
その為の土壌を豊かに、せめて少しでも豊かにすることくらいしか出来ない。しかしそのようなことを長きにわたって怠って来た。

そのツケはきちんと払ってから死にたいんです。
自分の人生の黄昏時にはまだ少し時間があるしな。

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本当の命拾いではなかったけれど、そんなことを考える日々の明け暮れが戻って来た、待合室で。

音楽が、いやアートが、いまモノ言わねばならない今、今なのにな。
出てこいよ。

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2015年8月24日 (月)

ときどきトランス日記 No.71 / かき氷の夏。

夏の名古屋の暑さは度を超えた容赦のなさで、そこが良い。マレィ半島の都市部の暑さと似ているのね。
濡れたような暑さに包まれて。

名古屋ではかき氷を食べました。
覚王山の日泰寺と云うお寺への参道のお店。
みたらし団子や五平餅、心太やきしめんなんかも商っていて、首振りの扇風機がゆっくり作動しているような、眠っているみたいなお店。

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そこを少しだけ起きて貰って。
でもお客が帰ればまた眠ってしまうのかな。

小学生くらいまでは、国分寺にもこういうお店があった。
みたらし団子、餡子餅、お稲荷さんや海苔巻き。冬には今川焼。夏にはかき氷。
マーケットとかストアなんていう言葉はまだなくて、市場、と言っていた。
朝日市場や国分寺市場。
乾物臭い市場の中の、乾物屋の隣にあった。母親の買い物にくっついていくと、時々何か食べさせてくれた。
夏にはいつもかき氷。
壁面が崩れぬように、食べる前に両手で少し固めてから匙で掬うんだよって。

かき氷。

もう50年近くも昔、家庭用のかき氷器というのが初めて登場した頃に、我が家でも導入した。
こういうものは、サイフォンやらジューサーミキサーやらアイスクリ―マーやらと同じで、暫くするといつの間にか仕舞われてしまって、もう二度と出てこない物品である。
だが、外箱の印象が強く、たしかあの辺に、と思って実家に寄った際に探してみたら、やはりあった。
何故か黄色いヘルメットがおまけについていて、白木みのるがコマーシャルをやっていたのだった。

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家庭用かき氷器と云うとペンギン型が有名。初期の家庭用からは10年位後発だろうけれど、まだ「カワイイ」の時代では全然ない頃の、当時のポップ感覚。
しかし我が家のはもっと骨太で、インダストリアルデザインなんて言葉が似合いそうなやつ。

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8月8日(土)@名古屋「TOKUZO」~真夏のバリ島祭り~

バリのトラディショナル達とのコラボレーションという、音速得意のイベント。
ガムランのSuara Sukma、バリ舞踊Surya Metu。書道家の山田陽水さん、声楽家の山田広美さん。いろんな組み合わせでの演奏は物凄く面白く、普遍性の紡ぎだすトラディショナルな輝きと、一回性の発火を身上とする音速との鬩ぎ合い、冒険とスリル。

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音像の刹那の記憶の連なりで成り立つ音楽、残像のうねりが作品になってゆく舞踊、最終の完成形から遡ってその過程のダイナミズムを感じる書道。
其々の時間芸術のその時間を共有するという、まぁ、言葉にしてみたらそんな感じのことなのだけれど、あの時の会場を浸す濡れたような暑さは圧巻でした。

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熱に霞んでゆく視野は現世を離れ、別の物を見せてくれる。真夏の名古屋。

往路も復路も大好きな新幹線。
ビールが美味しいので、あと2時間位は乗っていたいなといつも思ってしまう。
本を読みながらビールを飲んで、富士山や浜名湖のあたりではちょっと外を見て、何か美味しいもの食べても良いな。で、好い加減の辺りで音楽を聴きながら居眠り、、には名古屋はちょっと近すぎるのね。
けど、それより遠いとやはり飛行機になってしまう。物見遊山の旅じゃないから、やはりタイトな時間割。
それでも時々こうして好きな乗り物に乗って音楽の旅をさせて貰っているのだから、有り難い事だなと思う。

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8月ももう半ば。
高校で寮生活をしている息子がラグビー部の合宿を終えて、一週間帰って来た。
彼が産まれてから6年と少し、南の島の小さな村で親子三人とても緊密な暮らしだったのに、帰国してからは少しづつあの濃密だった三人感が薄れていった。それはでも当り前のことで、家族のひとりひとりが、ひとり、として自立してゆく、絆はそのままで、っていう家族の成長の過程なんだろう。

家の中に三人居る、っていう「感じ」とか「気配」っていうのは久し振りで、とても心地良い時間過ごした。
とくに旅行に行くわけでもなく、買い物に付き合ったり、付き合って貰ったり、スーパーラグビーの録画でわいわい言い乍ご飯食べたり、お気に入りのワインバルに連れて行っちゃったり、朝ゆっくり過ごしたり、実家に遊びに行ったりした。

帰省3日目。彼の大好きな下北沢で遊んだ。
自分の仕込んだ古着だが、見る目が育ち、なかなか良いものを選んでいるじゃないかと思う。
この町はバンド仲間が昔住んでいたこともあって、随分遊んだ町だ。20数年前のはなし。
お店が増えて過密になっている感じがでもそれほどしないのは、適当に新旧交代が行われているからなのかも知れない。
良く行っていた呑み屋はどれもなくなっていたと思う。
ジャンプ亭、鍵屋、名前は忘れたけど店内が3層くらいの複雑な構造になっていて、鬼太郎の家と呼んでいた店、もっと色々あったけど、もう忘れてしまった。
冬にはおでん屋に良く行っていた。
好色なお爺ちゃんがやっていて、男の連れがあろうとも粘り強く女性客を口説いてた。
いま風呂沸かすから、その間に奥に布団敷いとくから、、云々。
しまいに嫁らしきひとに叱られて、でも懲りずに、性交の動作をする対のワヤンクリット人形みたいなのを出して来て、目の前で嬉しそうにぱこぱこ動かしてみせた。
でもおでんは絶品。鍋の遥か底から深海魚みたいに時々現れる、真黒に味のしみた大根とか卵。
ぼくたちは注文する度に「下から下から」って。
コの字のカウンターの奥にちらりと見えている住居らしき畳の部屋に、最後に女性が泊まってからどれだけの時間が経っていたんだろうといま思う。
もしかしたら一度もなかったんじゃないのか、とも。

この晩は親しくしているアーティストBちゃんカップルのご招待があって、凄く楽しみにしていた。
19時に西武遊園地駅近くの橋の上で、って云うインフォメーションだけのミステリーツアー。

多摩湖に架かる長い長い遊歩道を兼ねた橋。
あちこちで小さな宴が始まっていて、わくわくする空気。
歩いてゆくと小さな灯りの許にぼくたちの宴の場が用意されていて、Yちゃんがにこにこして待っていてくれた。
アジアの宵には何処でも見かけるような屋台。
美味しそうなものがたくさん並んでいる。

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このふたりの料理のセンスが凄く高い。
そのセンスは旅の記憶を料理にしてしまうセンス。
エスニック料理、な訳だけれど、食材やスパイスが完全に現地の物、と云うのは家庭ではなかなか難しいので、何で代用してホンモノの味に近づけるのか、が面白さと思う。

我が家もエスニック料理を作るが、それは生活の記憶の料理なのね。なので、彼らの旅の記憶の料理がとても楽しく、どれもにふたりの「感じ」が満ちていた。

湖上を渡り、橋を吹き抜ける風とワイン。
料理は風で味つけされて更に美味しく。
西武遊園地では花火!

西武遊園地は子供の頃に随分行った。国分寺から電車で20分くらいで近い。
昔は隣にあったユネスコ村とセットで行くのが定番だった。

その頃は西武遊園地駅ではなく、多摩湖ホテル前駅と言ったと思う。そこからユネスコ村まで「おとぎ線」という路線で、おとぎ電車という、遊園地内に走っていそうな、トロッコ列車みたいな、半露天な電車に乗って行った。小型のSLが牽引していたと思う。
その後それは山口線と名前を変えて、現在は「レオライナー」になって、近代的な車両で(確かタイヤ走行だ)西武球場まで運航している。
ユネスコ村は世界中の建築物が小さいスケールで再現されていたり、大きなトーテムポールがあったりしたテーマパークの走りみたいな所で、昭和の子供たちは此処で世界旅行を楽しんだんだ。
でももう夢のように消えてしまった。

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レトロな想いの詰まった多摩湖や狭山湖の辺り。
ワインの酔いが記憶を誘導するのか、ノスタルジックな空気は柔らかくてたまらなく気持ちいい。

いつか年老いたら、こんな空気の中でずうっと暮らしたい。

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